彼と彼女はお互いに勘違いを深めるようです


(マズい……!! ど、どうする!? どう反応するのが正解だ!?)


 まさか、こんな展開になるだなんて思ってもみなかった、それが蒼の正直な感想である。


 自室に勝手に侵入したやよいが、よりにもよって春画を隠していた書類入れ用の箱を開けるだなんて……と、完全に予想外の状況に陥ってしまったことに驚愕しながらも、蒼はここからの正しい自分の行動について必死に頭を回転させて考えていく。


 やよいの雰囲気から察するに……怒っているか、自分に失望しているか、あるいはそのどちらの感情も抱いているに違いない。

 普段の彼女ならば、嬉々としてこのネタを武器にからかいに来るだろうが、ああやって顔を紅くして何も言ってこないことから考えても、相当に怒りを覚えているのだろう、と今のやよいの様子から推察を行った蒼が緊張感に息を飲む中、震える声で彼女が問いかけを発した。


「あの、さ……聞くまでもないことだけど、その……これ、蒼くんの、その、なんだよね……?」


「うっ……!?」


 ここで、最初にして最大の選択肢が蒼の前に突き付けられる。

 即ち、正直にその春画が宗正の物であると伝えるか、もしくは彼を庇ってそれは自分の物だと嘘を吐くかだ。


 前者の場合、宗正の犠牲と引き換えにやよいの誤解は解け、自分にかけられた嫌疑は即座に晴れる。これ以上の恥を掻く必要もないし、そもそもの元凶が師匠なのだから、彼が桔梗に折檻されるのは当然の帰結として納得出来るかもしれない。

 だが、その場合は下手をすると自分と同じく宗正から春画を預けられた燈を巻き込みかねない。

 親友である彼に恥を掻かせることは心苦しいし、そもそも父のように慕う宗正を売るような真似は蒼には出来なかった。


 と、なれば、彼が取る選択肢は自ずと決まってくるわけで……。


「あ、ああ……そう、だよ……そそそ、それは、僕の、だね……」


「そっか、そう、だよね。うん、そうに決まってるよね……」


 恥を承知で、やよいの信頼度が下がることを覚悟して、自ら泥を被ることにした蒼。

 ある意味では、春画を発見したのが仲間内で最も理解がありそうな彼女で良かったじゃないかと自分を慰め、それでもやっぱり狼狽を隠し切れずに蒼がどもる中、やよいの方もこの短いやり取りの中で更に勘違いを深めてしまっていた。


(や、やっぱり……この本は、蒼くんの趣味なんだ……!! そ、蒼くんは、女の子にこんなことをしたいと思って……!!)


 過激さと正常さの両極端ともいえる春画が彼の物であると、蒼の口からその答えを聞いてしまったやよいの妄想が加速していく。

 女の子を躾けるのも、女の子のお尻に魅力を感じているのも、女の子と甘い雰囲気でイチャイチャしたいというのも、全て蒼が抱いている願望であると思い込んだやよいは、同時にとぼかしていた部分が心の中で自分の名前に代わりつつあることに心臓の鼓動をばくばくと高鳴らせる。


 実際のところ、蒼は一切渡された春画を読んでいないので、その内容など知るはずもなく、そんな願望を抱いているわけではないのだが……そんなことなど知らないやよいは、その場で正座をして彼からの裁きを待ち続けていた。


(お、襲われちゃったらどうしよう……? やっぱり最初はあの本みたいに躾けるところから始まるのかな? 勝手に部屋に入って私物を荒らしたことへのおしおきで、お尻ぺんぺんされちゃったりして……でもってやっぱりその後は、ほほほ、本番、的な……!?)


 ごきゅっ、と口の中に溜まった涎を喉を鳴らして飲み込むやよい。

 春画の内容を基に妄想を繰り広げる彼女の脳内からは、既に蒼からの求めを拒むという選択肢が消失している。

 もはや、彼の成すがままにされてしまおうとやよいが覚悟を決める一方で、蒼の方は必死に思考を回して次の一手を模索していた。


(どうする、べきだ……!? ここからどう動くのが正解なんだ!?)


 当然ながら、蒼はやよいを襲おうだなんて考えはこれっぽっちも抱いていない。

 むしろここからどう彼女の気を静めようかと懸命に頭を働かせているくらいだ。

 

 もうご理解いただけていることだろうが、この時点で二人の間には途轍もない認知の差が存在している。

 やよいは蒼が自分に似た女性を題材とした春画を所持していると勘違いし、彼が少なからず自分のことを性的な対象として見ていると勘違いし、蒼の方は顔を赤らめたやよいの様子が何も言わずに俯いていることから、彼女が相当に怒りと失望の感情を抱いているものだと勘違いしているのだ。


 お互いがお互いに抱いている妙な怖気や緊張感もまた、その考えを強めることに一役買っていた。

 やよいの目には蒼の姿が自分に襲い掛かるタイミングを計っている野獣のように見えるし、蒼の方はやよいが怒りのあまりなにも言えなくなっているように見えている。


 無知による勘違いはより大きな勘違いを生み、その連鎖が続くほどに大きな思い違いが生まれていく。

 そうやって、たっぷり一分は無言のままに時を過ごした後、意を決した蒼がからからに乾いた口の中から搾り出すようにして声を発する。


「と、取り合えず……部屋に、戻ったら? そうしようよ、ね? 時間をおいてお互いに落ち着いたら、また話し合いの場を設けるからさ」


「……うん」


 今はお互いに冷静ではないから、まともな話し合いなど出来るはずもない。

 心を落ち着かせて、妙なことを口走らないようになってから、改めてこの状況についての話をすべきだろう。


 その間に上手いこと言い訳を考えるか、彼女に事実を伝えるべきかの判断も出来るだろうし……と、とにかくやよいと自分の精神を落ち着かせようと考えた蒼が提案した話し合いを先送りにする案を受け、やよいもまた妙な勘違いをしながら首を縦に振る。


(そうだよね。普通に考えて、今は動揺の方が大きいもんね……蒼くんは趣味がバレたからってすぐに開き直れるような性格してないし、まずは時間を空けようとするのは当然か……)


 仲の良い女友達にエロ本を発見されたとして、そのまま事に及ぼうとするだなんてのは有りそうで無いシチュエーションだ。

 男子の方からすれば自分の隠していた秘密を掘り当てられたショックが大きく、性欲を燃え上がらせるなんて気分にはそうそうなれないものである。


 きっと、彼もそうなのだろうと、勝手に蒼の考えを想像したやよいは、同時に彼の言葉を深読みしてゾクリと背筋を震わせた。

 また話し合いの場を設ける……というのは、色々と落ち着き、覚悟を決めたら呼び寄せるということなのだろう。

 そして、それは話し合いのためなどではなく、やよいに自身の不用意な行動の責任を取らせるため……つまりは、自分を抱くという意思表示だ。


 無論、蒼にそんなつもりは一切ない。だが、耳年増のやよいは完全に勘違いをして情緒が乱気流状態になってしまっている。


 自分が次にこの部屋に呼び出される時が来たら、それはきっと蒼によるを受ける時なのだろう。

 その翌日からは、自分は今まで通りに彼と接することが出来るだろうか……? などという、しなくてもいい心配をしながらおずおずと部屋から出て行こうとしたやよいであったが――


「ちょ、ちょっと待った……!!」

 

「あっ……!?」


 蒼とすれ違った瞬間、彼に呼び止められながら強い力で手首を掴まれたやよいは、びくりと体を震わせて彼の顔を見上げる。

 真剣な表情をして、真摯な眼差しで自分を見つめる蒼の様子を目にした瞬間、彼女の胸は高鳴り、全身が火照り始め、顔もかあっと赤く染まっていった。


「……こ、このことは、他言無用で。僕と、やよいさんだけの秘密にしておいてほしいんだ。た、頼むよ」


「う、うん……っ! わかり、ました……」


 純粋に、これ以上の被害を防ぎ、やよいの口から桔梗へと春画の情報が漏れないように念押しをしただけの蒼の言葉であったが……やよいの耳には、その言葉がこんな風に聞こえていた。


『今は見逃してあげるけど、だからといってこのことを誰かに言ったらどうなるかわかってるよね? 君も、親友や育ての親に恥ずかしい姿を見られたくはないでしょ?』


 対応に不備がないように必死になっている蒼の眼差しが、やよいの目には自分を喰らおうとする野獣の眼光に見えている。

 こうして手首を掴んで念押ししたのも、自分がその気になれば今すぐにでもお前なんて食べちゃえるんだぞという意思表示にしか思えなかった彼女は、ばくばくと心臓の鼓動を響かせながら、普段とは打って変わった従順な態度で蒼へと返事をしてから、今度こそ彼の部屋を出て行った。


「「ああ、どうしよう……まさかこんなことになるなんて……!?」」


 お互いに別れ、一人きりになった瞬間、蒼とやよいは奇しくも全く同じ言葉を発する。

 しかして、その言葉の裏に隠れている感情はまったくの別物であり、それぞれがそれぞれにとんでもない勘違いを抱いたまま話は進んでいた。


 蒼は宗正から預かった春画を見られたことと、それについて怒っているやよいをどう宥め、信頼を回復しようかと悩み――

 やよいの方は、秘密を知ってしまった自分に蒼が手を出す日のことを想像して身悶えしている。


 何も知らない間に三人娘からとんでもない誤解を受けた燈も不幸ではあるが、全てを知ってしまった蒼の方もこれはこれで結構不幸だ。

 とにもかくにも、お互いに無用の心配を抱きながら、蒼とやよいは悶々としたまま時間を過ごすのであった。

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