弟子と師匠
「珍しいこともあるもんだな。お前が、あそこまで誰かに対する感情を露わにするだなんて」
酒宴が進み、数刻後。
騒ぎ疲れた仲間たちが夢の世界に旅立っていく中、平然と意識を保っていた蒼が厠で用を足して出てみれば、そこには師匠である宗正が立っていた。
自分を待っていた彼の様子から、話をするために自分を追ってきたのだろうとあたりを付けた蒼が一つ溜息を吐く。
そんな弟子の様子を目にした宗正は、一呼吸置いた後に……こう、問いかけてきた。
「忘れられないか? まだ、あの日のことを……」
「……一生かかっても無理ですよ。忘れることなんて出来やしない。師匠が僕の立場でも、そう思うでしょう?」
「……ああ、そうだな。馬鹿なことを聞いたよ」
当然か、と自嘲気味に笑いながら宗正が蒼に詫びる。
口下手な師匠が自分に何を問いかけようとしているかを理解している蒼は、面倒な自分自身の感情に折り合いを付けると共に、宗正へとこう述べた。
「……よく、わからないんです。師匠に拾ってもらったあの日から、僕は愛というものを理解することが出来なくなっている気がします。師匠も、燈も、蒼天武士団のみんなも、僕にとっては大切な存在です。ただ――」
「怖いか? 最後の一歩を踏み出すことが。大切な存在の中から、最も大切な者を見出すことが恐ろしいのか?」
「……肯定も、否定も出来ません。本当に、よくわかっていないんです。ただ……自分がいつか、大切な存在を裏切ってしまうのではないかと思うと恐怖が過ぎるというのは、正しいでしょうね」
その恐怖の根源が、悩みの種が、何処から来るものなのかを宗正は理解している。
遠い昔、十年近い過去、自分が蒼と出会った日のことを思い返した宗正は、瞳を閉じると共にその光景を瞼の裏に思い浮かべる。
「……お前は、そろそろ許してやるべきなのかもしれん。あの男のことを、そして――」
それがどんな意味を持つのかを、宗正も重々に理解している。
だが、新しい一歩を踏み出した蒼に対して、師匠として助言しなければならないことであることも確かであった。
もう、過去を振り払え。そして、未来へと歩んで行け。
そう愛弟子へと告げようとした宗正であったが……その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
自らへと押し寄せる冷たい殺気と、膨大な気力の流れを感じ取った彼は、それを受け流しながら再び瞳を閉じる。
まだ、蒼の中では全ての整理が出来ていないのだと……そう悟った宗正が口を閉じ、首を振った瞬間、彼らを包んでいた極寒の冷気は瞬く間に消え去っていった。
「……それは、あの日のことを忘れることよりも無理な話です。僕は一生、あの男のことを許すつもりはありません」
「……苦しくはないか? 命ある限り誰かを憎しみ続けるというのは、途轍もない重しを背負って生きるようなものだ。お前はあの日、全てを捨てて生まれ変わった
のだろう? ならば、もう……その重荷を捨ててもいい頃じゃあないのか、
「………」
懐かしい呼び名を耳にした蒼が、無言で歩を進める。
自身の横を抜け、宴会場と化している広間に戻っていく彼へと振り向いた宗正は、その背へと最後の助言を口にした。
「もう一つ、師としてお前に伝えておこう。悩むことも、恐れることも、必要な時がある。だがな、蒼……そうやって恐怖し、困惑すること自体が、既に答えになっていることだってあるんだ。これまでわしと二人きりで生き続けてきたお前は、数々の出会いを経て信頼出来る友と仲間を得た。燈、こころ、栞桜、涼音、他にも山ほどの人たちとの出会いと別れが、お前を成長させたんだ」
「……一人、名前を出す人物を忘れていますよ」
弟子からの指摘を、宗正は無視した。
その名を告げるのは、彼自身の心の底にある感情を突き付ける時にすべきだと理解していたから。
「恐れるな、蒼。お前は、お前自身が憎み続けている人間とは違う。そして、お前はやよいを母の代わりにしたりはしないはずだ。確かに愛は悲劇を生む。だが、それ以上にお前を強くしてくれるものでもあるということを、肝に銘じておけ」
「……はい、師匠。有難く、そのお言葉を頂戴しておきます」
話を聞き終えた蒼は、そんな言葉を口にすると振り返ることなく歩み去っていく。
それで良いと、宗正は思っていた。
いつか、蒼は自分の過去と心の底にある感情と向き合う時がやって来る。
その時、これまでに得た何かが、今、この瞬間に告げたこの言葉が、彼の進むべき道を照らす標となってくれるはずだ。
「……百元、わしも褒められた師などではないぞ。まだまだ弟子にどう接すればいいのかがわからんことの方が多いわい」
そんな呟きを漏らしながら、宗正が渡り廊下から見える庭園へと視線を向ける。
月明かりに照らされるそこの、隅に在る池を目にした彼は、まだ暖かい時期だというのにも関わらず、池の水面に分厚い氷が張っている様を目にすると、ゆっくりと瞳を閉じると共に深く長い息を吐くのであった。
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