鷺は美しさを失わず

「……失礼、します」


「……百合姫? 何をしてるんだい?」


 音もなく、すっとタクトの横に並んだ百合姫は、そう一言だけ発すると彼の手から巾着袋を奪い取った。

 そうした後、自ら這い蹲り、地面に転がった小判を一枚一枚丁寧に拾い上げ、それを袋の中へとしまっていく。


 自分の意志に反した行動を取ることを咎めるタクトの問いかけも無視して、最後の一枚まで小判を拾った百合姫は、予想外の行動に驚く蒼へと恭しく巾着袋を差し出した。


「……傍に使える者として、我が主の非礼を心よりお詫び申し上げます。蒼天武士団の皆さまは、私にとって命の恩人。こちらは主であるタクトさまからの感謝の証であり、鷺宮家からの依頼に対する皆さまへの謝礼でございます。情報を秘匿し、皆さまを騙し続けたことへの詫びも含めて、僅かながらですが大目に金子を積ませていただきました。どうぞ、お収めください」


 深く、深く……蒼に巾着袋を差し出していなければ、畳の床に頭を擦り付けるのではないかと思わせるほどのお辞儀をしながら、百合姫が言う。

 タクトの非礼と、鷺宮家の背信の責任を一身に背負いながらの謝罪を行った彼女は、はっきりとした声で同じ台詞を繰り返す。


「重ねて、我が主である黒岩タクトさまの無礼をお詫び申し上げます。私程度の頭ではありますが、この場はこの百合姫めの謝罪に免じて刀を収めていただけないでしょうか」


「百合姫、さま……」


 家族の裏切りを知らず、何も知らないまま危険な旅を強いられ、その果てに人間性に問題のある男の下らない欲求を満たすために差し出された少女が、深々と頭を下げている。

 自分たちの中で誰よりも幼く、何の罪も背負っていないはずの百合姫が無用な戦いを避けるために夫となる男や家族に代わって謝罪する姿は、あまりにも痛々し過ぎた。


 どちらかといえば、百合姫の立場は自分たちと同じはずだ。

 家族と大和国聖徒会に利用され続けた彼女が、タクトたちに憤慨したとしても何らおかしな話ではない。


 それなのに、自分を危険に追いやった人々のために、その小さな体で彼らの責任と罪をたった一人で背負った彼女が床に這い蹲り小判を拾い上げる様は、最早よく出来た貴族の娘という領域を超越していた。


 彼女には理解出来ていたのだろう。ここで蒼天武士団と大和国聖徒会が争うことが、両者にとって何の益もないことだということが。

 そして、鷺宮家にとっても損にしかならないこの無意味な戦いを防ぐために、恥を惜しまずに多くの人々の前で這い蹲った後、蒼たちへと謝罪してみせた。


 鷺宮家の長女として、家族を守るために……。

 蒼天武士団に命を救われた者として、彼らを傷つけぬために……。

 そして、黒岩タクトの妻として、彼の不始末を共に詫びるために頭を下げた百合姫の行動は、燃え上がっていた燈たちの怒りの炎を一気に鎮火してみせるだけの破壊力があった。


 自分たちが激憤に駆られる中、恥を押し殺して自分のすべきことをやってみせた彼女の姿に、燈は胸が締め付けられるような痛みを覚える。

 彼女にこんな恥を掻かせるような事態を招いてしまったことを深く後悔する面々であったが……ただ一人、その行動に怒りの感情を抱いた男がいた。


「……不始末? 非礼? 僕が、僕が悪いっていうのか? お前みたいな子供が、僕を見下すのか?」


 ぶるぶると、タクトの拳が、全身が、怒りで震える。

 少しずつ、あの狂気を滲ませていく彼の姿に一瞬怯んだ百合姫であったが……意を決したように彼の目を見つめ返すと、堂々とした態度でこう言葉を返した。


「今の行いは、武士としても人としても最低の行為でした。私があなたの妻としてすべきことは、そんなあなたを肯定することではありません。あなたの間違いを正し、共に分かち合うことです。だから――」


「それを、見下すって、言うんだよ……!! 貧乏貴族の娘が、何の権利があってこの僕を見下す? どうして誰も彼もが、僕のことを否定するんだ!?」


「落ち着いてください、タクトさま。私は、ただ――」


「黙れぇっ!! どうして僕の言う事を聞かない!? どうして僕に恥を掻かせる!? お前は、お前は――っ!!」


 あっ、とその現場を見ていた玄白が声を上げた。

 怒りのまま、拳を握り締めたタクトはそれを思い切り振り上げ、驚いた表情を浮かべる百合姫へと叩き込もうとしたからだ。


 今の彼は、何もかもがいた。

 感情の制御も、自分自身の言動についても、何一つとしてコントロールするつもりのないタクトが握り締めた拳を振り下ろそうとした瞬間、静かな、だが、鋭く冷たい声が室内に響く。


「その拳を、どうするおつもりですか?」


「うっ……!?」


 その声を耳にすると共に、タクトの本能に刻み込まれる凶悪な感触が五つ。

 生物として、自分に迫る危機をはっきりと感じさせるその感触が、明確な痛みを伴ってタクトの意識を襲う。


 紅蓮の炎に焼かれる、熱く焦がされるような痛みが全身に走った。

 巨大な荒波に飲まれ、息が出来ないままに翻弄される苦しみが意識に焼き付いた。


 巨大な鉄塊に叩き潰され、鋭いかまいたちに首を断たれ、目の前で抉り出された心臓を見せつけられ……そんな痛みと苦しみと恐怖を立て続けに味わったタクトは、喉の奥からひぃぃ、という情けない悲鳴を絞り出すと共にその場に硬直する。


 そうした後、自分の身が五体無事であることと、この広間の中で刀を引き抜くことはおろか、その場から一歩も動いた者すら存在していないことを理解していった彼に向け、瞳の奥に冷酷な氷塊を漂わせた蒼が淡々とした声で言い放つ。


「……黒岩殿。我々の仕事は、まだ終わっておりません。あなたの手から仕事に対する報酬を頂くまでは、我々の百合姫さまをお守りする任務は続いております。今、あなたが、その握り締めた拳を彼女に振り下ろすというのなら……我々蒼天武士団は命を懸けてあなたのお相手をさせていただきます。それをご覚悟の上で、行動なさいませ」


「う、うぅ……っ!」


 気当たりだと、ようやくタクトは理解した。

 今の猛烈な痛みと苦しみを伴う感覚は、蒼たち蒼天武士団の面々がタクトを威嚇するために発した気当たりによってもたらされたのだと、蒼の鋭い眼差しを受けて気が付かされた彼の手首を、燈が掴む。


「……満足か? こんな子供に当たり散らして、挙句の果てに暴力まで振るおうとしやがって……! お前の惨めなプライドは、それで満足したか?」


「な、にを……っ!! この、クソヤンキーが――」


「これ以上恥を重ねたくなかったら、とっととその口閉じろ。ずっと年下の女の子に自分の尻拭いさせた上に手を上げようだなんて、人間の屑としか言いようがねえ。確かに俺はお前の言う通りのクソヤンキーかもしれねえが……今のお前は、そんな俺より遥かに下種な男だぜ」


「このっ、このぉっ……!!」


 言い返す言葉を、と必死に頭を働かせても何も出てこない。

 当然だ。普通の人間ならば、こんな状況に陥ったら自分の非を認めて謝罪するしかない。そもそも、まともな人間はそんなことなどしないのだから。


 そうやって、自分の中で妄想する展開と現実との乖離に苦しみ、虚栄心を疼かせるタクトから視線を外した蒼は、彼の身を預かる立場にある匡史を真っ直ぐに見据え、口を開いた。


「……一応、顔馴染みとして忠告しておきましょう。誰かの命を預かる立場にある者は、その人たちの行動にも責任を負わなければならない。部下の不始末を黙って見ているようでは、武士団の団長としては不適格でしょう」


「ぐ、ぐぐっ……!!」


「どうやら、燈はあなたを買いかぶっていたようだ。あなたを知能だけはある男だと評していたが……銀華城での惨敗と、無数の兵たちの死と引き換えに得た答えがこれであるというのなら、その知能すらも疑わざるを得ない」


 憎しみとも怒りとも違う、ただ単純に彼の行動の一つ一つに呆れたとばかりに淡々と話し続けた蒼は、まだ体を強張らせている百合姫をタクトの傍から引き剥がすと、彼女をこころに預ける。

 そして、自分たちを利用した男たちと、彼に従う者たちの顔を黙って見回した後……仲間たちと立ち去りながら、何も言えずに俯いている玄白へとそっと囁いた。


「……堕ちたとしても、鷺は鷺でしょうに。まだ美しさを残している我が子の羽をもいで、親として満足ですか? 自らは泥に塗れ、どれだけ傷付いたとしても、子供を守りたいと願うのが親という生き物だと、あなたたちにもその想いが残っているはずだと僕は信じてきましたが……実に、残念です」


「………」


 その言葉を受け、何も言えずに俯く玄白を一瞥してから、今度こそ蒼は広間を去っていく。

 先日の告白より小さくなり続けている父の姿に胸を痛めながら、百合姫もまた蒼天武士団に逆らわずに彼らと共にこの場を後にするのであった。

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