やっぱり、優しい


「……そっか。何があったか、詳しく話すつもりは?」


「ない。というより……出来ない、かな。弱い男だと思ってくれて構わないよ。僕は過去の傷に触れることを恐れる、臆病者だからね」


 そう言いながら立ち上がった蒼が、やよいに背を向けるようにして幕舎の壁を見つめる。

 その脳裏に思い浮かべた過去の光景が……かつて味わった絶望を、まざまざと思い起こさせていた。


「……立場を、高い位を得るってことは、命令一つで人を自由に動かせるということだ。望む望まないじゃなく、命令を受けた人間は従うしかない……それが、人の上に立つ人間が持つ力ってものさ」


 思い出す、あのあばら家を。その中で冷たくなっていた、大好きだった人のことを。

 そして……その人の命を奪った、生涯許すことの出来ない一人の男の顔を。


「僕は嫌だ。言葉一つで誰かの人生を奪うような、そんな人間にはなりたくない。でも……人の上に立つ者には、そうしなきゃならない責任がある。勝利するために死地に飛び込めと、命を懸けて戦えと、そう仲間たちに命令しなきゃならない時が遅かれ早かれ必ず訪れるんだ。大の被害を抑えるために、小の命を切り捨てなければならなくなる時も来る。僕は嫌だ、誰かの命を見捨てることを良しとするような考え方なんて、絶対にしたくない!」


 握り締めた拳を薄い天幕に叩き付けて、声を震わせながら……蒼が、自分の中に抱える葛藤を吐き出すようにして叫ぶ。

 自分の中にあるどす黒い感情と、与えられた立場に付きまとう責任感に押し潰されそうになっている彼の後姿は弱々しくて、だけどそれでも一生懸命に立ち続けようとしているところが、やよいにはとても痛々しく感じられた。


「……逃げたいんだよ、僕は。追い縋ってくる過去の亡霊から、今も憎み続けてる男と自分を重ねることから、逃げだしたくて堪らないんだ」


「蒼くんにもいるんだ。そんな風に、ずっと恨んでる人っていうのが……」


「うん、そうだよ。幻滅したかい? 僕は誰にでも甘くて、優しくて、温かい、底抜けのお人好しじゃないってことを知って、嫌いになった?」


 くるりと振り返り、自嘲気味な言葉を口にする蒼が、重いようなそれでいて軽いような……そんな不思議な足取りでやよいへと近付いていく。

 じっと自分を見つめる彼女の肩と脇腹に手を置き、そこを掴んで逃げられないようにしながら、これまでで一番冷たい目をした彼は、先の言葉に続けるようにしてやよいへと尋ねた。


「本当の僕は、君が思うような優しい人間じゃないって言ったら、やよいさんは信じるかい? その気になれば君のことを襲って、貪り尽くして、息の根だって止められる……そんな、温かさとは真逆の性質を持った男だって言ったら……君は、どうする?」


「………」


 強い力を込められているわけではないが、絶対に振り払えない。

 返答次第では、もしかしたら自分は本当に蒼に食べられてしまうのではないかと、やよいは思った。


 少しだけ剥がれた蒼の仮面とその下にある本性を垣間見て、胸がぐっと押し潰されるような圧を感じたのは確かだ。

 だが、それでも……自分が彼に抱く気持ちは、何ら変わりはしない。


 その想いを言葉にして、やよいは素直な自分の気持ちを蒼へと伝える。


「多分、信じないよ。蒼くんは自分のことを冷たくて残酷な人間だと思い込んでて、そんな自分を隠すために優しい人間のふりをしてると考えてるのかもしれないけど……それは違うって、あたしは思う。あなたは、本当に底抜けに優しいお人好しだよ」


「……どうしてそう思うんだい? 君が見てきた僕の全てが、全部嘘かもしれないっていうのに?」


「そんなことないよ。少なくとも、あの日あたしを殴らなかった蒼くんの行動は本心からのものだった。蒼くんが咄嗟に自分の心を偽れる人だったとしたら、そんな風に悩んだり苦しんだりしてる姿を見せるとは思えないもん」


 蒼の反論に対してやよいが引き合いに出したのは、自分がずけずけと彼の心に踏み込んでしまったあの日の行動……蒼の心の地雷を踏んでしまったあの場面のことだった。


 あの時、やよいは間違いなく蒼の一番触れてほしくなかった傷に触れてしまったはずだ。

 唐突に、遠慮もなく、あんな風に自分の最大の傷に触れられたとしたら、相手が女だろうと普通の人間ならば何かしらの攻撃的な意思を向けるはずである。

 だが、それに対して蒼が行動は暴力でも暴言でもなく、抱擁。そして、それ以上は踏み込んでほしくないという懇願であった。


「本当に蒼くんが冷酷で残酷な人だったとしたら、あんなことをしたあたしをタダで済ませるはずがない。でも、あなたはあたしに何もしなかった。質問に質問で返して悪いけど、どうしてあたしを許したの? あなたの一番触れられたくなかった傷を抉ったあたしを、冷たい人間であるはずのあなたが、どうして?」


「それ、は……」


 ふっと、蒼の纏っていた冷たい空気が緩んだ。

 それと共に、口ごもりながらやよいの脇腹に触れていた左手を動かした蒼は、彼女の下腹部に指を触れさせながら小さな声で答えを口にする。


「もう、君は触れさせてくれたじゃないか。君自身が持つ、大きくて深い傷に……」


「………」


 蒼が触れている部位とその言葉の意味は、やよいには重々に理解出来た。

 かつて、何故自分にそこまで気を向けるのかという彼の問いかけに対しての返答の際に教えた、ずっと抱え続けている苦しみに改めて触れられたとしても、やよいは嫌な気分にはなっていない。

 蒼の指先から、その眼差しから……憐憫とも嘲りとも違う、温かな感情が向けられていることを感じているからだ。


「……君は、強い。本当に凄いと思う。どれほどの苦しみを背負っていたとしても、前に進み続けようとするその姿には心から尊敬の念を送っているよ。そんな君の傷と苦しみを知っているからこそ、あの時に君を傷つけるだなんてことは出来なかった。かつて僕は、この傷に触れたんだ。同じことを君からされたとして、どうして君のことを殴り飛ばすことが出来る? ……君も僕も、お互いの傷に触れた。それでお相子ってものだろう?」


「……ふふっ、ほらね? やっぱり優しいんだから……!」


 自分から傷を明かして、それに触れさせたやよいと、了承もなしに心に踏み込まれ、何の前触れもなく傷に触れられた蒼。

 両者には大きな差があるというのに、それでも彼は自分とやよいを心の傷に触れた者同士として同じ立場に置いて見ている。


 それを底抜けのお人好しと呼ばずして何と呼ぶのだと、クスクスとした笑い声で蒼へと告げたやよいは、今度は自分の肩に触れる彼の右手を掴むと、ゆっくりと自分の左胸へと押し当てた。


「っっ……!?」


 右手に伝わる、やよいの大きな胸がぐにゅりと形を変えていく感覚と、暖かな温もり。

 またお得意のからかいかと、自分の女性としての部分を使ってのおふざけをやよいがしているのかと思った蒼であったが、口を開いた彼女の穏やかな声を耳にして、それが違うことに気が付いた。


「わかるかな? おっぱい大きくて邪魔だから伝わってないかもしれないけど……あたしの心臓の鼓動、落ち着いてるでしょ? 緊張も恐怖も感じてない、ゆっくりとした心拍……だよね?」


「……うん」


「ふ、ふ……っ! 蒼くん、一生懸命怖い顔して、殺気とか脅し文句であたしのことを怖がらせようとしてたみたいだけど……そんなことしても無駄なんだからね。だって、蒼くんが優しいってこと、あたしたちはよ~く理解してますから! 今更怖い人間のふりしたって、遅い遅い! それにほら! あたしのことをその気になれば襲えるって言うんだったら、広げてる手をぎゅっと握り締めたらどうですかね? 今ならおっぱい揉み放題なんだけど、出来る?」


「……無理。出来ない」


「ほら! やっぱり口だけのヘタレじゃん!! あたしを襲うって言うんだったらね~、もっとこう、びりびりっと服を破いて、地面に押し倒してから、もうぐっちゃぐちゃにする勢いで――」


「ああ、もうわかったって! ……慣れないことするもんじゃないな。余計に恥かいただけで終わっちゃったよ」


 このまま放置していたら具体的に卑猥なことを言いだしそうなやよいを制止して、蒼が彼女の体から手を放す。

 その様子は完全に普段の彼に戻っており、冷たい眼差しと表情を張り付けていた顔を揉み解す様から、彼が結構な無理をしてあの振る舞いをしていたことが判った。


 やっぱりこっちだな、とやよいは思う。

 決してあの冷たい雰囲気の蒼も嫌いではないのだが、自分的にはこちらの蒼の方が何倍も好きだ。


 だが、そうなると彼が理想の団長に近付くにつれて、自分の人間としての好みからは外れてしまうのではないかとも思ってしまう。

 そこは悩みどころだな、とやよいは苦笑しながら、顔を赤らめている蒼に向け、優し気な声でこう告げた。


「大丈夫だよ、蒼くん。蒼くんはあなたが嫌ってる人みたいにはならない。人を見捨てることを良しとする人間になりそうになったら、あたしたちが全力で止めるから。あたしも、燈くんも、こころちゃんも栞桜ちゃんも涼音ちゃんも……みんなが蒼くんの傍にいるよ。あなたは一人じゃないから、全部をあなたが抱え込んだりしないで。みんなとちょっとずつ、その苦しみを分け合っていこうよ。ね?」


「やよいさん……」


 やよいの小さな体が、どうしてだか大きく見える。

 自分の全てを受け止めてくれそうな彼女の包容力にどきりと心臓の鼓動を跳ね上げた蒼は、小さく息を吐きながら彼女には敵わないなと思った。


「それにほら! なんかもうわけがわからないくらいにぐちゃぐちゃした気持ちになったら、あたしが全部受け止めてあげるから!! 大体そういう時って、一発やればすっきりするって話だし! なんだったら今からでも……あでっ!?」


「……途中まで感激してたのに、最後の最後で台無しだよ。まったく、君って人は……」


 ――とまあ、最終的には普段の言動に戻ったやよいの頭に手刀を叩き込み、蒼が溜息を吐く。

 自分の感動を返してくれ、と心の中で嘆きながらも、普段と何ら変わらないやり取りで空気を元に戻してくれたやよいに救われたことも確かであった彼は、再び大きく息を吐くと、顔に笑みを浮かべて言った。


「ありがとう、やよいさん。大分、心が軽くなったよ。お陰で多少は指揮官って立場に前向きになれそうだ」


「ほんとに~? 嘘ついてたってすぐにわかるんだからね?」


「……どう? 今の僕、嘘ついてるように見える?」


 そう言いながら振り向いた蒼の表情から、完全に迷いがなくなったわけではない。

 だが、常に思い悩み、苦しんでいた先ほどの顔よりかは大分マシになったと判断したやよいは、大きく首を振ることで彼に答えを返した。


「よ~し! そんじゃ、蒼くんも頑張る気持ちになったみたいだし、あの嫌味な眼鏡の総大将に一泡吹かせるためにもきちっと仕事をこなしていこうか! 最終的には、蒼くんの手柄が総大将の倍くらいはある感じに持っていきたいよね!」


「いや、僕が手柄を立てたらそれは総大将である聖川殿のものになっちゃうんだけど……まあ、仕事をきちんとこなすって部分は同意だよ」


 呆れたような、それでいて楽しんでいるような、そんな笑みを浮かべてやよいと話し合う蒼。


 まだ、自問自答は終わらない。それでも、自分を信じてくれる仲間がこうして存在しているのなら、その期待に応えたいと思う。

 例え陰謀が渦巻く状況だとしても、自分は自分のすべきことを成すだけだと……そう、硬く心に誓った蒼は、三軍を纏め上げるための算段をやよいと共に組み上げていくのであった。

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