天国のような地獄


 蒼がやよいと宗正とのコンビに泣かされていた頃、栞桜を送っていった燈はまだ彼女の部屋にいた。

 単純に行って帰ってだけならばとっくに用事は済んでいるはずなのだが、部屋に辿り着いてからというものの、栞桜の方がなんだかんだと理由や頼みごとを言いつけて彼を帰さないようにしているのがそうなっていない原因だ。


 やれ水を持って来いだの、やれ酔っ払って上手く動けない自分に代わって布団を敷けだの、下らない言いつけを燈へと口にする栞桜。

 そんな自分の命令を渋々といった様子ながらも全て受け入れる燈の様子に、栞桜は言い様のない恍惚とした感情を抱いていた。


(なんだ、この、感覚は……!? 地に足がついていないような、ふわふわした気分だ……)


 もう、最後に酒を口にしてからそれなりに時間も過ぎた。水も十分に飲んだし、酔いが醒めてもおかしくない頃だ。

 しかして、栞桜の体は今もなお火照り続けており、落ち着かない気分は心臓の鼓動を激しい鍛錬でもしているかのように早め続けている。


 今の自分が落ち着かない理由は、酒ではない。この部屋で二人きりになっている、この男が原因だ。

 そう、心では気が付いていながらも頭の処理が追い付かない栞桜は、燈の顔を見るときゅっと締め付けられる胸を両手で抑えながら、深く息を吐いた。


(変だ、こんなの、知らない……! 熱くって、どきどきして……甘い。苦しいのに、幸せで、訳がわからなくなりそうだ……)


 齢十六、今年で十七になる少女である栞桜は、その感情との初めての邂逅に戸惑いを隠せていない。 

 今までずっと、そういったものと無縁の人生を送ってきた彼女は、ばくばくと爆ぜてしまうのではないかと思うくらいに激しく脈打つ心臓の鼓動を感じながら目を細めた。


 女であることを恥じて、呪って、受け入れられずに生きてきた栞桜だが、結局は自分自身が女性であるという思いを捨て切ることは出来なかった。

 現実と理想の板挟みになり、その苦しみの中でもがき苦しんでいた彼女に手を差し伸べて、抜け出すきっかけを作ってくれたのが燈だ。


 女でも、弱くても、欠陥品でもいいのだと、彼は言ってくれた。

 大事なのはそんな自分を好きになって、受け入れてやることなのだと……その言葉があったからこそ、栞桜は今、前を向いて仲間たちと共に歩むことが出来ている。


 本当に、心の底から……燈には感謝している。

 彼と出会えなければ、今も自分は鬱々とした気分を抱えたままの、ぐじぐじとした情けない人間で在り続けていたはずだ。


 自分を変える切っ掛けを作り、殻を破る機会を与えてくれた彼には、栞桜も本気で感謝していた。

 だが、それが純粋な感謝の気持ちだけで終わりになるほど、栞桜は割り切った性格をしていなかったのだろう。

 要するに……やはり自分は、女を捨て切れない、乙女であったということだ。


 上手く言葉に出来ないが、燈と一緒にいると楽しい。

 手合わせの時も、蒼ややよいが相手をしてくれている時とは違う、特別な高揚感に胸をくすぐられる。


 先の飲み会のように、自分の意地を張った発言に対して呆れたり、心配してくれる彼が喧嘩の相手をしてくれる時は、腹立たしくもありながら何処か嬉しい気持ちを抱いていたことも確かだ。


 どうして、燈にだけそんな感情を抱くのか?

 どうして、自分はそんな風に思ってしまうのか?


 栞桜はずっと、その答えを出すことを避けていたのかもしれない。

 それが何なのかは、ずっと前から判っていた。ただ、それを認めるのが怖くて、恥ずかしくて、ずっと見て見ぬふりを続けていたのだろう。


「……おい、布団敷き終わったぞ。やることないなら、もう戻っていいか?」


「……まだ、頼みはある。そこの棚に、手拭いがあるから取ってくれ。それで――」


 言えない、もう少し傍にいてほしいだなんて。

 素直にそんな願望を彼に伝えるのは、まだ少し怖い。


 こころのような可愛らしくて気立てのいい少女ならまだしも、自分のような粗暴で男を立てる術も知らない女の想いを受け止めてもらえるかどうか、栞桜にはまるで自信がなかった。


 それでも、ただ、ほんの僅かだけ……自分の想いに従った彼女は、燈に手拭いを取らせると意を決したように息を止める。

 そうして、着ている服の襟元を開いてから、か細い声で彼へとこう言った。


「ここを、拭いてくれ。汗をかいて、気持ちが悪い……」


 全部を放り出したわけではない。乳押さえだってあるし、なけなしの勇気を振り絞ったとしても谷間をわずかに見せるくらいの大胆さしか自分にはないのだから。

 だが、今までずっとコンプレックスに思ってきた自身の大きな胸を、女性としての象徴を自ら曝け出し、そこに触れる許可を出したということが、栞桜が自分の抱く燈への信頼感とそれ以上の感情を表す精一杯の方法であった。


「……っ!?」


 吸い込まれるように自分の胸へと視線を向けた燈が、顔を赤らめてそこから目を逸らす。

 昔からここに男たちの下卑た眼差しを受けることも多く、その度に嫌な思いをしてきた栞桜であったが、どうしてだか今は燈からの視線がこそばゆく胸をくすぐる心地よいもののように感じられていた。


「……お前、やっぱまだ酔ってんだろ? 自分が何を言ってるのかわかってんのか?」


「汗をかいて気持ちが悪いから拭けと頼んだだけだ。別に、お前が邪な想いを抱かなければ何も問題は――」


 ダンッ、と大きな音がした。燈が強く力を籠め、棚を閉めた音だ。

 その音を聞いて、びくっと体を震わせた栞桜は、真顔で自分を見下ろす彼と視線を交わらせ、息を飲む。


「馬鹿か、お前は。こっちは健全な青少年で、おまけに酒も入ってる。その状態で女の胸に触って邪な感情を抱くなだぁ? ……無理に決まってんだろ、んなもん」


 出来る限り静かに、感情を押し殺した声で、燈は栞桜へとそう告げた。

 その言葉の意味を理解していくほどに自分の呼吸が荒くなっていくことを感じる栞桜に向け、改めて燈がその意思を尋ねる。


「んで? それを知った上でまだ俺に何かしてほしいことがあるのか? ないってんなら俺は蒼たちんところに戻るぞ」


 びりりと、栞桜の体に電流が走る。

 直接的なようで遠回しな最終警告の意味を完全に理解した栞桜は、自分と同じく燈もまた冷静でいないことを感じ取っていた。


 布団の上に座る、あられもない姿の女。

 はだけた服の胸元から覗く、大きく形の整った乳房。

 酒も入った状態で、自分を勘違いさせるような発言を繰り返す少女を前にして、それに襲い掛かったところで誰が今の燈を責められるだろうか?


 それでも、燈は理性で必死に自分の欲望を抑え、栞桜のことを気遣っている。

 本当に彼女が酔っ払っているだけで、その言葉や行動の意味を理解していない可能性を鑑みて、こうしてはっきりとした警告を口にしてくれたのもその気遣いの一種だ。


 酔ってまともに動けない状態で、年頃の男と二人きり。

 自分の魅力を知ってか知らずか、男を挑発するような行動を繰り返した上で、自分の肌に触れろと言う。


 それがどれだけ危険な状況か、理解出来ているのか?

 理解した上で、それを求めるというのなら……自分はもう、遠慮などしない。


 その言葉は燈からの警告であり、彼の意思表示でもある。

 今の状況でお前に触れたら、もう理性が保たないと……雄として、お前を喰らうという明確な意思表示を受けた栞桜の胸に湧き上がって来た感情は、恐怖でも嫌悪感でもなく、喜びであった。


(嘘だ……どうしてこんなに心地良い? どうしてこんなに、胸が躍る? いつもなら、こんな風に思ったりしないのに……!!)


 男から欲望をぶつけられたことは、今まで何度だってあった。

 別府屋の大旦那である金太郎やその配下であるくちなわ兄弟、更には彼らの取り巻きから幾度となくこう言われたものだ。


 女は女らしく、男に跪いていればいい。素直に従うのなら、妾として可愛がってやろう。良い体をしているから楽しめそうだし、若いのだから子供も何人だって仕込めるだろう……そんな、下品な言葉と共に欲望を隠そうともしない眼差しに栞桜は何度だって晒されてきた。

 そうした時、いつだって彼女の胸にはおぞましい恐怖と自分へと醜い欲望を向ける男たちへの憎しみが込み上げてきていたはずだが……どうしてだか、今はそれとは真逆の想いが満ち満ちているのだ。


 燈からそういう風に見られていることが嬉しい。

 彼の欲望を掻き立てる女として、自分のことを抱きたいと思わせるような魅力を有していることを証明するような彼の言葉が、嬉しくて仕方がない。


 ずっとずっと、嫌だったはずなのに。女として生を受けたことを呪いながら生きてきたはずなのに。

 こうして燈と向かい合っている今、この瞬間には、自分が女であることを心の底から感謝してしまっている。

 想いを寄せている男に抱かれるという幸福を想像した瞬間、栞桜は初めて自分の感情を理解した。


(これが、恋……! 私は、燈が好き、なんだな……)


 自分の世界に光を与えてくれた人を、心の何処かで気にし続ける。

 感謝が、信頼が、互いに混ざって膨れ上がって、男女という性別の違いが友情を超えた感情を栞桜に抱かせた。


 女として、人生で初めての恋。それを捧げる相手に、燈は十二分に足る男だ。

 その彼が今、自分に重大な決断を委ねている。最後の選択肢を託された栞桜は、意外なほどに冷静な声を口から発した。


「あ、かり……私、は……」


 まだ、逃げ場はある。普段のように不埒なことを言うなと怒鳴って、彼を殴り飛ばして、今夜のことをなかったことにすることだって出来る。

 だが、栞桜にはそんなことは出来なかった。


 今、欲望を解放して、酔って思考も肉体も上手く回らない自分に襲い掛かることだって出来る燈が、その欲を必死に抑えて耐えてくれている。

 彼の忍耐を、我慢を知っているのに、それを生み出した自分が見て見ぬふりなど出来ない……責任は、きっちりと取るべきだ。


 もう、遠回しな誘いで見に徹することは出来ない。

 もう、強がった言葉で自分の想いを誤魔化すことをしてはならない。


 言うべき言葉はたった一つ、栞桜自身の心の底からの望みのみ。

 抱いてほしい……ただ、その願望を告げ、最後の一押しを以て、全てに決着をつける。

 込み上げる熱い何かを感じながら、喉を震わせながら、涙を浮かべる瞳を潤ませ、燈を見上げた栞桜は、ぱくぱくと何度か口を開閉し、そして――


「……ず、かご……」


「……は?」


「くず、かご……!!」


 緊張感で全身を強張らせていた燈は、栞桜が口にしたまるで見当違いな答えに対して間抜けな声を漏らした。

 自分が尋ねている内容と全く関係のない答えであるそれが何の意味を持つのかを一瞬理解出来なかった燈だが……徐々に赤から青へと変化していく栞桜の顔色と、彼女が何かを耐えている雰囲気を察知すると、血相を変えて部屋の隅に遭った屑籠を手に取り、彼女へと放り投げた。


「う、ぐ、ろ……おろろろろろろろろ……」


「お、おい! しっかりしろ!! やっぱお前、相当酔ってたんじゃねえか!」


 直後、その中に顔を突っ込んで痙攣し始めた栞桜の背を擦りながら、彼女の身を案じる燈が叫ぶ。

 乙女として最大の羞恥ともいえる今の姿を見るのは忍びないが、このまま放置しては栞桜にとってかなり酷い末路が待っていることを悟った燈は、申し訳ないと思いながらも彼女に対して世話を焼き続けた。


「おい、水飲むか? それとも顔を洗いに行くか? 取り合えずもう、全部吐いて楽になっちまえ!!」


「す、すま、おろろろろろろろ……」


「ああ、もう! ここまで酔っ払ってたら、確かにあそこまでおかしくなりもするわなあ! もうちょい早く気付いてやれば良かったぜ」


「い、いや、あれは別に……うぷっ! うろろろろろろろ……」


 燈に背を擦られながら、屑籠の中に顔を突っ込んでいる栞桜は思う。

 このような醜態を晒しただけでなく、折角気付いた自分の想いを勘違いだと燈に思われるだなんて、本当に救いようがないと。

 そして、酔いが醒めた暁には、強情で粗暴な自分はどうせ今日のことは何かの勘違いだと自分に言い聞かせ、また燈に対して素直じゃない態度を取り続けてしまうのだろうな、と。


 ペースも考えず浴びるように酒を飲んで、落ち着かないまま酔いを全身に回して、挙句にこんな醜態を晒すまで悪酔いしてしまって……。

 最悪だ、本当に今日は厄日だ。いや、悪いのは大体自分たちなのだが、他の何かのせいにしなくてはやってられない。


(死にたい……本当に私という女は、どうしてこうも大事なところで……)


 自分自身の愚かさに涙し、最大の好機を棒に振った栞桜は、結局全てを出し切って顔を洗ったところで意識を失い、夢の世界へと旅立ってしまった。

 その後、あまりの騒がしさに様子を見に来た桔梗は燈と蒼の体験した天国のようで地獄のような一夜とその裏に隠されていた目論見を知ると共に、弟子たちの馬鹿さ加減に呆れ果て、自分の秘蔵の名酒たちが無残に飲み干されてしまったことに大層ご立腹なさったそうな。


 ……そして、そんな騒がしい夜が明けて――

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