耳を疑う衝撃の告白を受けた女は、信じられないとばかりに目を見開いて父親の顔を見つめた。

 それから、ゆっくりと顔を振り向かせ、項垂れている男へと震える声でこう問いかける。


「そう、なん……? あんさんはもう、揚羽と夫婦になってしもうたんか?」


「すまない……! 俺たちはもう、てっきりお前は死んだと思っとったんだ! 田舎者の俺たちには、夜の世界のことなんてとんとわからん! 長らく便りもないもんだから、とうの昔に亡くなってしまったと思ってたんだよ!」


「は、はは……っ! そっか、そやったんやね……おっとさんも、おっかさんも、あんさんでさえも……うちのこと、死んだと思ってたんや? せやから、死んだ奴のことなんて忘れて、残された者同士で幸せになろうとしてたっちゅうことやね?」


「すまん! 本当にすまん! まさかお前が生きとって、こうして帰ってくるだなんて夢にも思ってなかったんだ……!!」


 ぶるぶると震え、地べたに額を擦り付けながら、男は必死に謝罪の言葉を繰り返す。

 そんな彼の姿を目の当たりにした女性は、裏切られた気持ちを感じてはいたのだが……それ以上に、自分自身がその結末に納得していることに驚いていた。


(ああ、そうやろな……そら、そうなるわ。居なくなった奴のことなんざ思い出すだけ無駄や。そんなら、その寂しさを抱えた者同士で傷を慰め合えばええ。この二人が夫婦になるんも、当然の話やないか)


 自分自身の中で無理なくそんな結論が出せるくらいには、彼女は冷静であった。


 遠い昔の約束など、子供の交わした口約束に過ぎない。

 自分にとってその約束は未来への希望そのものであったが、この男にとっては呪いのようなものだたのだろう。


 正式な契約でもなければ、責任のある大人同士の誓いでもない。

 子供の頃になら誰だってする、その場の雰囲気に流されて交わしてしまっただけの口約束だ。


 それをこうして覚えて、罪悪感を感じて、その約束を守れなかったことを詫びてくれるだけでも、十分に嬉しい。

 それは、彼の心の中で自分が生きていたという何よりの証拠なのだから。


「……顔、上げておくれやす。うちは、怒ってへんで」


 静かに、穏やかに……女性は、想い人であった男へとそう告げた。

 出来る限り柔和な笑みを浮かべ、欠片も怒りの感情など抱いていないことをその笑顔で伝えてから、今度は家族へと振り向く。


「ごめんな、みんな。どうしてもおっとさんたちの顔が見たくてここまで来てもうたけど……うちの居場所はもう、この家にはないんやね」


 寂しさはある、虚しさも、苦しみも、当然のように感じている。

 だが、それ以上に、彼女にとっては家族が幸せでいることを知れたことが嬉しく、喜ばしかった。


 自分がいなくなってからの十数年間、家族は無事に生き永らえ、幸せな日々を送っている。

 それが知れただけでも、もう十分だ。


「……ごめんな。うち、もう行くわ。ここにはもう戻らんから、安心して暮らしぃ。おっとさんもおっかさんも、体に気を付けて。それと――」


 この家に自分が居ては駄目だ。自分のことを忘れ、幸せな日々を送っている家族の負担になってしまう。

 戻ろう、あの籠の中に。自分の居場所は、男たちの欲望が塗れるあの街が相応しい。


 醜く汚れた自分よりも、身も心も清らかな妹の方が彼の妻となるに相応しい女性のはずだ。

 絶対に、あの二人ならば幸せな家庭を築ける。そんな確信を抱けただけでも、帰ってきた甲斐があったじゃないか。


 そう、自分自身に言い聞かせ、心の中で涙を流しながら……女性は、すっかり大人の女に成長した妹の目を見つめると、笑顔でこう言った。


「元気な赤ちゃん、産むんやよ。顔は見せられんけど、うちも楽しみにしとるから……ほな」


 大旦那の言う通りだった、現実はそう甘くはない。

 それでも、この一時の再会で十分に幸せは感じられた。帰る場所はなくなってしまったが、まだ自分には遊郭という行き場所が残っている。


 これから先、どれだけ遊女として生きられるかは判らない。

 だが、煌びやかな夜の灯りの中を舞う、一匹の蝶として飛び続ける人生も悪くはないと、彼女がそう思った時だった。


「待って、姉さん!!」


 背後から、必死に自分を呼び止める妹の声が聞こえた。

 その声に反応し、足を止めた女性は、ほとんど無意識に近い形で家族たちの方へと振り向く。


 これが今生の判れ、最後に妹と二言三言の言葉を交わすことくらいならば構わないだろう。

 そんな、ほんの一瞬の反応の中で感情を深めた女性は、すぐ近くにまで迫っていた妹と目を合わせ、そして――


「えっ……!?」


 ――自分の身に何が起きたのか、最初は判らなかった。


 鋭く、鈍い痛みが額に走り、脳が揺さぶられる。

 たらりと垂れる生温い血の感触と、目の奥で弾ける白い火花。


 痛い、なんてものではなかった。

 激しい痛みに眩暈を起こし、その衝撃に崩れ落ちながら、彼女は顔を青ざめさせた妹の右手に握られた火かき棒を目にする。

 かぎ状に曲がった棒の先端にこびり付く鮮血を見て取った彼女が地面に倒れ伏すのと、その棒で自分が殴られたことを理解したのは、ほぼ同時だった。


「あ、揚羽!? いったい、なにを……!?」


 頭部を殴られた衝撃で朦朧としている女性に代わって、父親が妹に対して突然の凶行の理由を問いただす。


 どうして、実の姉である女性を襲い、命を奪いかねないほどの暴力を振るったのか……?

 荒い呼吸を繰り返し、唇をわなわなと震わせながら、彼女はこの場にいる全員へと、自らの考えを告げた。


「だ、だって、おかしいじゃない……こんな風になるまで必死になって帰ってきた人が、あっさり想い人と家族を捨てて何処かに消えようとするだなんて、どう考えてもおかしい! この人はきっと復讐するつもりなのよ! 自分を売り飛ばした両親と、自分を裏切った妹夫婦に!」


「な、なに、を……?」


 妹の口から飛び出したのは、荒唐無稽な被害妄想だった。

 おそらく、彼女も姉の想い人を奪ったという罪悪感を抱えたまま生きてきたのだろう。

 その感情が、死んだと思っていた、いや……そう思いたかった姉と対面して、爆発してしまった。


 身を粉にして働き、莫大な身請け量を稼いで、ボロボロになりながら帰ってきた姉の姿を見て、彼女は思ったのだろう。

 自分を売り飛ばした両親を、想い人を奪った妹を、ひどい裏切りを見せた男を、姉が許すはずがない、と……。


 その被害妄想は、抱いていた罪悪感と共に大きく膨れ上がっていった。

 いっそここで姉が感情のままに喚き散らし、自分に向かって殴り掛かってくれでもしたならば、その感情もいくらかは軽減出来たかもしれない。


 だが、姉は不気味なまでに静かに、怒りを露わにすることもなく、自分たちの下を去ろうとしている。

 そんなの、どう考えてもおかしい。普通の人間なら、ここは絶対に激怒する場面のはずだ。


 それをしないで、自分を気遣って、家から出て行こうとする姉の姿を見て、彼女は思った。

 姉はきっと、後々に自分たちに対する報復を行うつもりだ。この場は引き下がって、何かしらの策を講じた後に、最高の時節を待ってから、自分たちをどん底に叩き落すつもりなのだ、と。


 そして、そのうってつけの時は、一年もすればやって来る。

 そう、自分の出産だ。愛しい夫との間に儲けられた子供もまた、姉にとっては復讐の対象になっているに違いない。


 嫌だ、奪われたくはない。今の幸せを、家族と共に過ごす穏やかな日々を、失いたくない。

 両親と共に生き続け、愛する人と共に時間を過ごし、生まれてきた子供の成長を見守る未来を、奪われたくない。


 ――こんな、何年も姿を現さなかった女に、自分の幸福が奪われてなるものか!


 そう思った瞬間、彼女は動いていた。

 囲炉裏に刺さっていた火かき棒を手に、家から立ち去ろうとする姉を呼び止め、彼女の額目掛けて棒を振り下ろす。

 鮮血と共に家の床に倒れた姉の姿を見降ろしながら、まだ狂気に包まれている彼女は狂ったように叫びながら、手にしている火かき棒を振り下ろすことを止めはしない。


「殺さなきゃ! この人は、殺しておかなきゃ! 私たちの幸せのために! 私たちの子供のために! この人は生きてちゃいけないのよおぉぉおおぉおっっ!!」


「ぐぎっ、ぎっ、ぎ、ひ……」


 何度も、何度も、何度も何度も何度も……硬い金属の棒が、頭に向かって振り下ろされた。

 皮膚は裂け、頭蓋が割れ、夥しい量の血が溢れ出す女性の頭がザクロのように割れたとしても、まだ妹は腕を動かし続けている。


 もう、悲鳴も上げられない。痛みすらも感じない。

 こんな悲劇的な死を迎えるために、自分は今日まで必死に頑張ってきたのだろうか? 報われぬ惨めな末路を味わうために、自分は――


(なん、でや……? なんで、うちばっかり……!?)


 困窮する家族を救うために商人に売られ、そこから必死になって生きてきたのに。


 家族の下に帰るため、愛する人と一緒になるために、どんな手段を使ってでも金を稼いできたのに。


 その金を全て使い、ようやく自由の身になって、これから幸せな未来が待っていると思っていたのに。


 それら全ての未来を諦めて、あれだけ思い焦がれていた幸せを手放してでも、家族には幸せになってほしいと思っていた、のに。


 どうして自分は、こんなことになっている?

 家族と共に居られる幸せも、不自由なく暮らせる幸せも、愛する人も、彼と生涯を共に歩める幸せも、女性として最高の幸せすらも、妹に譲ってやったはずだ。

 それなのに、なぜ……その妹に感謝されるどころか、こうして殺される羽目になっている?


 両親も愛していた人も、どうして自分を助けようとしてくれない?

 どうして? なぜ? 自分は本気で、みんなの幸せを願っていたというのに……。


「死ねっ! 死ねっ! 死ねえぇぇっっ!!」


 吠える妹の声だけが頭の中に響く。

 とっくに潰れて、原型を留めなくなったそこに、狂気に満ちた絶叫だけが響いている。


 ……いや、もう一つあった。

 それは他ならぬ自分の、怨嗟の声だ。信じ続け、想い続けた人間たちに裏切られた自分自身の、全てを憎む心の底からの叫びだ。


(うちが、何をしたっていうんや? 今までずっと、うちはお前たちの犠牲になっとっただけやないか。勝手に死んだことにして、戻ってきたら勝手に恐れて……挙句の果てに、殺すっちゅうんか? うちは今まで、こないな奴らのために自分の幸せを……!)


 遊郭で、揚屋で見た人間の欲望など、今、自分が目の当たりにしている悪意に比べれば清流のせせらぎにも等しい。

 自分の家族を、今まで自分たちのために尽くしてくれた存在を、自分の幸せのために平気で殺める。


 そんな汚泥の腐ったような醜さを見せる妹と、それを容認する家族と想い人への憎悪が、女の心に満ちる。

 こんな奴らのために今までの幸せを失った自分自身への怒りが、自分を裏切ってのうのうと過ごしていた彼らへの憎しみが、極限を超えたその瞬間、彼女は目覚めた。


「く、ヒヒヒ……あはははははははっ!!」


「ひ、ひいっ!?」


 頭が潰れ、顔が半分以上なくなったはずの姉が急に笑い出した時、妹は尋常ではない恐怖を感じただろう。

 超常の現象を目の当たりにし、腰を抜かして床へとへたり込んだ自分の目の前で、どう考えても死んでいるはずの姉の体が立ち上がった時には、それ以上の恐怖を感じたはずだ。


「ひ、ひ……っ! そうなんね? おっとさんもおっかさんも、誰も彼もみ~んな……うちに、死ねばええと思っとるんや? 何の幸せも感じずに生きてきたうちに、そのまま死ねというんやね?」


「あぁ、あっ……!?」


 ぐじゅり、ぐちゅりと、不快な音が鳴り響く。

 その音と共に盛り上がっていく頭部の肉が、再び美しい女性の顔を作り出すさまを目の当たりにする妹とその家族は、蛇に睨まれた蛙のように瞬き一つせずにその場に固まっていた。


「そか、そか……そいなら、ええよね? うちも少しくらい、我儘言わせてもらうわぁ。そやけど大丈夫、うちはもう自分の幸せなんて求めんよ。もう、そないなもんに興味はない。せやから――」


「ひ、ひいっ!?」


 今の今まで潰していた姉の顔が、その光景を逆再生するように復元されていく。

 最後に、火かき棒の一撃を受けた額の傷から、真っ赤な血の色をした瞳を浮かび上がらせた彼女は、明らかに人外の物へと変貌した自分の姿に怯える家族たちに向けて、にこやかに笑いながら、底冷えする声で……こう、告げた。


「――お前らも、うちと同じくらいに不幸になれ。あんさんらのささやかで綺麗な幸せ、うちが踏み潰したるわ」

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