第228話 色々怪しいみんなの動き

 三月になると、バイトを辞めるのもそうだけど、引っ越しの準備もしないとでなかなか大変だ。バイト前だとか、完全に休みの日だとかに荷造りをしたり、もう使わないだろうなって家具とか家電を処分したり。


 おかげで、もともと部屋にものはあまり多くないほうだったけど、随分と殺風景な部屋になってしまった。残っているのは、ギリギリまで使うベッドだとかそういったものと、小さい荷物を詰め込んだ段ボールの山。


 引っ越し先は二月の段階で決めておいた。当初の予定通り、勤務先にほど近い、けど最寄り駅からは遠いアパートだ。……自転車を買わないといけないかもしれない。ま、まあそれは追々やっていくとして。


「……さ、そろそろバイト行かないとなあ」

 数少ない残った家具の、勉強机から財布とスマホと定期をポケットに突っ込んで、ようやく役目を終えた冬物のコートの隣にかけてある、春物のパーカーを羽織って、僕は家を出た。


 家から新宿に向かう車窓は幾分か春めいてきていて、丸坊主だった木々も少しずつ季節の移り変わりを感じさせるものになっている。桜の木とか、蕾はもう出始めているし。そろそろ開花するあわてんぼうな桜も出てくるんじゃないだろうか。


 カバンに放り込んでおいた文庫本を片手に読んでいるうちに新宿に到着。歩きなれた道を進んで、バイト先に入る。


「……お疲れ様です……ん?」

 いつものように、そう挨拶しながらスタッフルームに入ると、何やら真剣な面持ちで机に置いたスマホとにらめっこしている水上さんと井野さんの姿が。


 ふたりは僕の姿に気づくと、水上さんはササっとスマホをポケットにしまい、井野さんはばねのように飛び跳ねて水上さんの反対側の椅子に座った。


「……お疲れ様です、八色さん」「おおおおお疲れしゃまでしゅ」

 ……んん? なんだなんだ? そもそも、水上さんと井野さんって、同じスマホ画面を見るほど、仲良かったっけ?


 いや、別にふたりの仲が険悪って思っているわけではなくて、自分のスマホの画面って、ある程度仲が良くないと見せたくない、みたいな感覚が僕にはあって。


「……ど、どうかした?」

「いえ、なんでもないですよ?」「な、なななな、なんでもないでしゅよ」


 ……井野さんはちょっと黙ったほうがいいと思うよ。あなたはわかりやすいから、特に。

 はぁ……また何か仕込んでいるのかな。勘弁してよ……辞める間際になっても胃を痛めないといけないなんて……。


「なんかさー。毎年のことと言えばそうなんだけど、この時期になると色んな人がバイト辞めてくからさー。気が滅入っちゃうよなー」

 これまた別の日のシフトのこと。休憩後のカウンターで小千谷さんと並んで本の値付け作業をしていると、ふとそんなことを小千谷さんは言い出した。ちなみに、残りのメンバーは浦佐で、浦佐は例によって隅っこでソフトの加工をしている。


「……ま、そういう季節ですからね」

「なんだかんだ、辞めるのは八色が先だったかー。入ってきたときは右も左もわからない可愛い奴だったのに、今じゃきっちり就職決めておまけに綺麗な彼女持ち。なんだ? この格差は?」


 ……いやー、詳しいことはよくわからないですけど、多分小千谷さんが結婚したら僕よりお金持ちになれると思いますよ。知らないですけど。


「どうせ八色の次に入って来る新人の男子高校生って奴も、きっと俺より先に辞めて、俺よりまともな生活を送っていくんだろうな……」

「……ひょっとして、落ち込んでます?」


 さっきからこんな調子の話ばっかりだ。小千谷さんらしくなく。……っていうか、ここ最近小千谷さんと顔を合わせるともうこのテンション。


「俺が落ち込まない能天気な奴に見えたか? そんなキャラはそこにいるちびっ子で充分だよ。いてっ」

「だーれが落ち込まない能天気でちびっ子っすか。失礼っすねおぢさんは。ったく……」


 ……挙句の果てには、漏らした失言にわざわざカウンターにやってきた浦佐が反応して頭をチョップされる始末。……そしてそれだけやって定位置に戻っていったし。

「……いや、八色が初めてなんだよなあ」

「はい?」


 ぽつりと呟いた先輩の一言に、僕は呆ける。……いや、なんか湿った口調で初めてとか言われるとドキッとするし。


「夜番って大体学生だろ? 学生ってことはどんなに働いても週三から四で、そこまで俺とシフトは被らないのが普通だし。八色だって、大学三年の前期まではそんな感じだったろ」


「……まあ、それまでは授業もありましたし。そこで単位あらかた取り切ったので、週五の契約に変えましたけど」

「大学生が一年半も週五で働くか? ここまで濃い後輩俺は見たことがねえよ」


「……まあ、そうかもしれませんね」

「っていうか、四年も一緒に働くとさー、いざ辞めるってなると、そりゃ寂しくもなるわなあって」

「……浦佐と井野さんに至っては、もしかしたら僕の四年を超える可能性がありますけど」


「そこまで俺ここで仕事しているかなあ。だとしたらほんとにメンタルに来るぜ? だって、それこそ毛の生えてない子供が、社会人になるまでの姿を見てきたってことになるからな。兄貴かよ、もはや兄貴じゃねえか。それまでには絶対俺が先に辞めてるわ。多分」


 ……それ、浦佐の前では禁句なのでは? 自分で反省していたじゃないですか。あなたの頭はニワトリなんですか。

「……おぢさん。だからどういうつもりっすか」

 ほらー。聞きつけた浦佐がお怒りだよ。


「ああ、悪い悪い。春から大学生だもんな。キャンパスで警備員に迷子と勘違いされるなよ?」

「むきいいい。もう怒ったっすよー。今に見てるっす。いつかビッグになっておぢさんを思い切り見下してやるっすからねー」


 ……この煽り合いは、ほんといつまでも変わらなかったな。このふたりが初対面のときからそうだったし。小千谷さんが初めて浦佐と会ったときに言った台詞は今でも忘れられない。「……宮ちゃんの隠し子?」これは伝説だ。

「……とりあえず、喧嘩は閉店後にでもやってくれ。ほれ仕事に戻った戻った」


 ぷんすか怒りつつも、浦佐はまたまた元いた位置に戻る。小千谷さんはケラケラと笑いながら、

「ああ、そういえば、八色って、何色が好きとかあるかー?」

 藪から棒に、そんな取り留めのないことを聞いてきた。


「……何ですか? 急にそんなこと」

「いいからいいから」

「……強いていうなら、白とか青とか、そういう感じの色が好きですけど……」

「ふーん。わかったわかった、サンキューな」


 口をすぼめて、意味ありげに頷く小千谷さん。その様子を見て、僕はちょっとだけ不安を覚える。

「……な、何をするつもりなんですか……?」

「いやー? べっつにー?」

「は、はぁ……」


「ああ、辞めてからもたまには遊びに来いよ? ついでに俺にうまい飯を奢ってくれ」

「……結局たかるんですか」

「いいじゃん、俺より金稼ぐ予定なんだから」

「……ほんと、プライドもへったくれもありませんね」


 なんてやり取りをして、残り少ないシフトの一日は終わっていった。

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