第213話 水上ハウス、ふたたび
それからクリスマスまでも、特に何事もなく日々は過ぎていった。……なんだったら、僕が一番欲しかった平穏が今現在得られていることにさえ、気づいてしまった。
……シフトは火の車っていう、ハリボテだけどね。
そんなハリボテの平穏のなか迎えた十二月二十四日。世間一般で言うところの、クリスマスイブだ。なんかこう言うとひねくれものみたいに思われるかな……。
シフトは予定通り僕と水上さんのふたり。宮内さんは中番の時間で退勤するし、小千谷さんは恐らく用事があるのだろう。……多分、津久田さん関係の。昨日顔色がなんとなく悪かったから。……偏見だけど、すんごくいいシャンパンとか用意しているんだろうなあ……。それで、小千谷さんが酔い潰される未来も想像できる……。サンタさん、今年の小千谷さんには濃ゆいしじみ汁をプレゼントしてあげてください……。
さて、あまり他人の心配をしている暇もない。……一応、今日僕は水上さんに大事な話をするって言ってあるんだ。おかげで朝から心臓がバクバク言って仕方がない。……爆発したりしないよね。……いや、多分働いているときはそんなこと忘れてしまうんだろうけど。
何故かって。クリスマスイブはイブで客足がまあ衰えない。……特に販売が。
客層は結構多種多様で、仕事帰りのスーツ姿のサラリーマンがゲームソフトを一本だけ持って来たりとか。……多分サンタさんなんだろうなあ、と心のなかで思っておく。
他には若い男女のカップルが、ゲーム機本体とソフトをまとめ買いしていったりとか。……仲良さげに腕を組みながら大きなビニール袋に商品を持って歩く様は、最初の一年目とかは結構ダメージ量があった。……でも、そんなカップルばっかりだから僕はもう慣れてしまった。なんだったら、ショーケースを開けるときに呼ばれる「すみませーん」の声で、すぐに鍵を持って「はーい」と反応するくらいには仕上がっている、はず。
一番悲しいのは、閉店間際にこそこそとエロ漫画をレジに持ってきたお爺さんを見かけたとき。毎年ひとりはいる。いるんだ……。多分これが一番僕には大ダメージを与えられる。
無論、イブの今日は「どういうわけか知らないけど」AV・エロ漫画の売れ行きは通常よりも多い。どういうわけか知らないけど。
僕も水上さんも、様々な歓喜と哀愁にまみれたレジを、ひたすら打ち続けていた。
そんなレジが落ち着いたのは、閉店三十分前のこと。別に行列ができていたわけじゃないけど、小刻みにレジが入るので、なかなかゆっくり息をつく間もなかった。
「……ようやくレジ以外の仕事ができるね」
「は、はい……。この時間でこんなにレジを打つことになるなんて思いませんでした……」
冬だけど暖房が強く効いているのと、手と口を動かし続けたせいか、僕も水上さんも額には少し汗が浮かんでいる。
「……まあ、例年イブはそんなもんだよ。準備が遅れたサンタさんとか、これから遊ぶものを買う人達とか、やっぱり多いから」
僕は制服のポロシャツの袖で、水上さんはシーパンのポケットに入れていたハンカチでそれぞれ汗を拭って、レジから加工スペースに下がる。
「今日の夜は何も加工が進まない体で考えていたから、買取分だけ片づけて閉店の準備しちゃおうか」
「は、はい……。わかりました」
それからもぽつぽつとお客さんはやって来たけど、さっきまでよりかは勢いがないのでさほど問題にはならない。……あと、今年もちゃんと閉店一分前にレジにいらっしゃいました。エロ漫画を買われるお爺さん。……もう僕があのお爺さんのレジを打つことはないのかなって思うと、そこはかとない心情を抱かされた、気がした。
営業時間さえ終わってしまえば、あとはいつも通りの業務をこなすだけ。ふたり並んでレジのお金を回収して、売り場の照明と空調を切って、お金の入った重たいバッグをサンタさんみたいに抱えてスタッフルームに戻る。お金を金庫にしまって、打刻登録を済ませる。
すると、また思い出したかのように僕の脈が速くなりだしたのを自覚した。
……お、おーけー。大丈夫。まだ緊張するには早すぎる。着替えて、お店出て、フライドチキン買って、水上ハウス行って、それからだから。落ち着け……落ち着けよ……。
自分に言い聞かせるように心のなかでひとりごとを呟き、暴れそうになる心臓を右手で押さえつけようとする。
何か意味深なことを水上さんが言ったりするのかな、とビクビクもしていたけど、そういったこともなかった。着替え終わってお店を出た僕たちは、ひとまずこの時間まで営業している新宿にあるフライドチキンがメインのファストフード店に立ち寄る。
「……とりあえず、フライドチキン四つ入ったパーティセット買えばいいよね?」
「私はそれで足りるので……」「じゃ、それにしよう」
そういうわけで、フライドチキンやポテトが入ったセットをひとつ注文。お値段千円ちょっとなので、大した出費でもない。
「あ、八色さん、私も半分出しますよ……」
全額丸々支払いをした僕を見て、急き立てられたように水上さんは財布を取り出す。
「いいよいいよ。このくらい。場所代みたいに思ってくれればいいし」
片手にほかほかチキンの箱入りの袋を提げて、僕は少し顔を緩めてみせる。
「時間もまあまあ遅いし、はやく帰ろうか」
そう言って新宿駅に向かいだした僕の隣に、水上さんはすぐにやって来ては、
「……あ、ありがとうございます」
ぼそっと白い息と共にお礼の言葉を吐き出した。……こういうところは普通なんだよなあ。ただ、ちょっとでも油断していると、
「……私たちも、これからするように見えるんでしょうか」「ぶほっ!」
……ほら、こうやってジャブが飛んでくる。ちなみに、当然だけど周りにはめちゃくちゃ人が歩いているから、凄く変なふうに見られたと思う。
「な、な、何を言っているのかな……水上さん」
こっちはさっきからずっと緊張しっぱなしだから、あまり弄ばないで欲しいんだ……。
「……いえ、だって、性の六時間ですし……」
なんだろう、この、「わ、私たちって、こ、恋人同士に見えたり、するのかな……?」的な定番の恋愛漫画とかに出てくる台詞の亜種感。嫌だよ? それを超意訳して、「私たち、これからエッチするように見えるのかな」なんて。……情緒の欠片もないよ。
「……どうだろうね、そう見る人もいるんじゃないのかな。知らないけど」
ただ、道行く人もみんなヤりますの煽り文句通り、僕らのことをそう見る人がいてもおかしくはない……だろう。なんなの、この返事も。これも普通は、「……恋人に、見えるんじゃないかな」って、なんか恥ずかし気に返す言葉じゃないの? 変化球にもほどがあるよ。
……クリスマスイブにまで突っ込みをさせないでください……。いや、突っ込みって、ボケとツッコミの突っ込みだから、別に他意はない、他意なんてない。
「……そ、そうなんですね……」
で、何水上さんはちょっと嬉しそうに顔を赤くさせてるの。え? 感覚おかしいの僕なの? 普通嫌じゃないの? このふたりこれからヤるんだろうなって思われるの。
……いい。わかってた。落ち着こう、水上さんのペースに乗せられたら全てが無駄になる。
緊張の上に違うベクトルのドキドキまでさせられて、僕らは水上さんの家へと向かった。何回か乗り換えを挟んで、最寄り駅に到着したころは完全に静まり返った住宅街が並ぶだけ。人もほとんど歩いていない。
駅からすぐ近くにあるマンションに入って、何か月振りかに、僕はチキンを持って水上さんの家に足を踏み入れた。
「靴、適当に置いてください。あと、上着貰っちゃいますね。掛けちゃうので」
芳香剤(催淫作用とかのあるアロマではないのは確か)のいい香り漂う部屋に入り、
「それで、八色さん。……大事な話って、何ですか?」
本当にすぐに、水上さんは水晶みたいに綺麗な瞳をこちらに向けて、尋ねた。
……いや、無理だ。どうやったって水上さんのペースだこれ。
……もういいや。彼女相手に自分のタイミングなんて探したら、一生やって来ない。
脈とか鼓動だとかがピークになっているのを感じつつ、僕は──
「そ、その……この間言った、どっちか選ぶって話なんだけど──」
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