第208話 寝不足なところもいつも通りで
ボケ担当のスタッフと顔を合わせないだけで、日々は平和に過ぎていった。小千谷さんは適当なことを言うだけだし、水上さんは何かと重たいだけ。単発ならまあ、キャパに収まる範囲、だと思っている。これがまあ、浦佐だとか井野さんだとかと掛け合わさることが多いから大変なだけで。
そんなことを嚙みしめながら過ごした一週間を終え、約束の土曜日。朝の八時にスマホのアラームで目覚めた僕は、いくばくかの緊張を片手に抱えつつ、朝の身支度を整えていた。
「……よし」
ポケットにスマホと財布と、ICの定期券を入れて、ほとんど中身が入っていないカバンを肩にかけて家を出たのは午前九時過ぎ。
ひとつの区切りをつけるために、指定した待ち合わせ場所へと、僕は向かいだした。
土曜日午前、中央線の上り電車は平日と比べてそれほどひどい混雑率ではない。平日朝と比べること自体がおこがましいかもしれないけどね。
バイト帰りと違って脳と体は元気なので、左手でつり革につかまりつつ、反対の右手でこれまた読みかけの文庫本を開いて読書に勤しむ。疲れているときは文字が頭を滑るからね……。
途中駅で各駅停車に乗り換えて、降り立った目的の駅は、高円寺。腕時計を確認すると、約束の時間まであと十五分ほど。
まあ、呼び出した身だし、これくらいでちょうどいいか……。
エスカレーターを降りて改札階に出て、ひとまず改札付近で待っているか、と思っていると。
「…………」
不意に、僕は腕時計を二度見、三度見としてしまった。いや、だってまだ約束まで十五分あるし。冬だから外は寒いし。
しかし、何をどう見たって、改札外の人だかりのなかに、俯き気味で口に両手を当てて息を吐きながら僕を待っている、井野さんの姿はあった。
僕は慌てて早足で改札機にICカードをタッチして、彼女のもとへ歩み寄る。
「ごめん、こんな早く来るなんて思ってなくて……」
声に気づいた井野さんは、下げていた顔をパッと上げては、林檎みたいに赤くなった頬を僕に向ける。
「いっ、いえっ……。家にいても、落ち着かなくて……。ちょっと家を早く出ちゃっただけです……」
ずーっと外で待っていたのだろうか、指先まで真っ赤になっている。さすがにちょっとの範疇じゃない気がするけど……。
「……何分?」
「え、え……?」
「何分待ってた?」
「……さ、三十分くらい、ですね……」
「……行こうと思ってた喫茶店、ちょっと駅から遠いんだけど、平気?」
かなり寒そうにしているけど、大丈夫かな……?
「へ、平気です、ひゃい」
……本人がそう言っているならいいか。あまり人がいるところでしたい話でもないし、できれば駅から遠い場所でゆっくり話したい。
「じゃ、じゃあ……行こうか」
僕が連れて行ったのは、高円寺駅から歩いて十五分の国道に面したところにある、ちょっと落ち着いた雰囲気漂う喫茶店。駅前に多数お店ひしめき合っているためか、ここまで歩いて来る人はそうそういないみたいで、店内には近所に住んでいるらしき人がひとりコーヒーを飲んでいるだけだった。
微かに流れるピアノのBGMと、やや薄暗い照明は、静かに話すにはうってつけだろう。
「……どうして知っているんですか? ちょっと不便な所にあるのに……。私、初めて知りました……」
道路に面して貼られたガラスの横、テーブルに向かい合って座った僕と井野さん。上着とかマフラーとかを外したりして、なかに着ていた、ゆったりとしたシルエットの白色ニットのトップスに、長めのブラウンのスカートが目に入る。
「井野さんの家からだと歩いて三十分くらいでしょ? なら当然だよ。僕も、大学の友達に教えてもらった場所だから」
彼女の私服からメニューに目を移して、何を注文するか決める。そこそこいい値段がするけど、浦佐のラーメンに比べれば優しいほうだ。
「僕は決めたから、ゆっくり選んでいいよ。呼び出したの僕だし、お代も僕持ちで」
「ひゃ、ひゃい……ありがとうごじゃいます……」
か、噛み噛みだ……。ここらへんはいつも通りと言ったところだろうか。
ゆっくりとは言ったものの、メニューに並んでいる料金の桁を見て目を丸くさせた井野さんは、申し訳なさそうに一番お安いブレンドコーヒーをおずおずと指さして、「わ、私はこれで……」と僕に言ってきた。
別に気にしなくてもいいのに、とは思ったけど、無理強いする場面でもないので、僕はホールのアルバイトのお兄さんを呼んで、注文を済ませる。ちなみに、僕も同じメニューだ。
コーヒーが出来上がるのを待つ間、とりあえず適当な話で暇を潰す。
「今日は、午後からは何か用事あるの?」
「え、えっと……う、浦佐さんと通話繋ぎながらセンター試験の過去問を時間使って解く約束していて……」
……な、なるほど。そうなんですね……。
「センターはどう? 取れそう?」
「……ま、まあまあって言ったところです……。あっ、でも、国語だけは点数安定するようになって。八色さんのおかげです……」
「そ、そっか……それはよかった……」
と、そんな雑談をしているうちに注文したコーヒーが届いた。井野さんはやや恥ずかしそうに一緒に置かれたミルクを混ぜつつ「ぶ、ブラック飲めなくて……」と呟く。
「大学生になっても飲めない知り合いいるから、大丈夫だよ」
ちょっと乾いた笑みを浮かべた僕は、何も入れずにそのままコーヒーを一口含む。……お高いだけあってクオリティはさすがです。家の近所にあったらどれだけよかったでしょうか。ゆっくり読書しながら喫茶店で暇を潰す習慣をつけてもよかったかもしれない。バイトが休みの日とかに。
「え、えっと……それで、八色さん。あの、お、お話したいことって……」
目の前に座る彼女は、恐る恐る僕にそう切り出す。多分、想像はついていると思うけど。
「……返事を、したいなって思って」
「……や、やっぱり、そうですよね……その、お話ですよね……」
顔を強張らせ、両肩を抱き寄せるように座る井野さんの様子は、どこか不安そうだ。もともとすこぶる自己評価が低い子だ、無理もない。けど、
「……だ、大丈夫です。こ、心の準備はしてきたので……。緊張しすぎて、昨夜全然眠れなかったんですけど……」
覚悟を決めましたとばかりに、自信なさげな瞳はそのままだけど、まっすぐ僕の顔を直視してきた。
「ははは……それは、申し訳ないことしたかもね……」
「……誕生日の日に、気遣わないでくださいって言ったのは私のほうなので。八色さんが謝ることじゃないです……」
「そう言ってもらえると、少しは気が楽になるよ……」
さて、無駄話もこのくらい……かな。
ゴクリと唾を飲み込んで、僕は二の句を継ごうとした。
今にも震えそうな声を、押さえつけて。
「……い、井野さん。僕は──」
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