第207話 おぢさんの一面と決意の夜

「とほほ……こってり佳織に絞られたぜ……」

 閉店後のスタッフルーム、疲れ切った表情で制服を脱ぐ小千谷さん。野郎しかいないので、もはや更衣室に入ることすら惜しんでしまう。まあ、そんなもんだ。


「何怒られてたんですか……」

 僕はワイシャツのボタンを上から閉めていき、さらにその上にセーターを着込む。


「んえ? こっちゃんのほうが二歳八色君より年上なのにどうしてそう適当なの、とか、っていうかいい加減結婚してよ、とか」

「……大体予想通りなのでもういいです」


 二十四歳で婚期を急ぐのも早い気がするけど、この人達の場合はこれくらい強く話さないと進歩しなさそう……。

「いやー、でも俺だって色々頑張ってるんだぜー? 貯金とか貯金とか貯金とか」


 小千谷さんも着替えを終えて、カバンの口を閉めたり財布をポケットにしまったりと変える支度を進めている。


「……小千谷さんに貯金するっていう文化があることに僕は驚きました」

「毎月給料から一万は貯めてるぜ? あとサッカーくじと馬券の払戻金とか。最近調子よくて、黒字なんだよいっひっひっ」

「……何に貯金しているんですか。またどこか旅行にでも行くんですか?」


 気色悪い笑い声を出した先輩を背に、僕はコートに袖を通してスタッフルームを出ようとする。すると、

「え? 指輪買うためだけど」

 何の気なしに言うテンションで、小千谷さんはそう話した。


「はい?」

 呆ける僕をよそに、小千谷さんはスタスタと僕の横を通り過ぎていき、カチっと部屋の電気を落とす。


「よく給料三か月分とか言うじゃん? まあ俺の月収は二十万行くか行かないかくらいだから、ざっと六十万か。今んところ十万は貯まったな。あと六分の五だ」


 こ、この人は……ほんとに……。


「どうした八色。幽霊でも見つけた顔して。あ、このことは佳織にはもちろん、他の誰にも言うんじゃねえぞ? 男同士の内緒話だ。貯金なんて俺のキャラじゃねえしな」

「……い、言うわけないですよ……」


 こ、こんな大事なこと、そうやすやすと誰かに言えるはず、ないですって……。あと、悲しいかもしれないけど、言っても信じてもらえない可能性が……。とはこの場では言いにくい。


「缶コーヒーの量も減らしてるんだぜー? 実は。出勤のとき一日二本飲んでるのを、一本に減らしたり。おかげで小銭が増える増える。百円の節約も馬鹿にはなんねーな」


 ……なるほど、それは相当だ。コーヒーを愛飲している小千谷さんがその量を減らすなんて。


 スタッフルームの鍵も閉めて、ホールでエレベーターが来るのを待つ。その間、

「……ま、六十万の指輪なんざ、佳織にとっちゃ見慣れてるかもしれないけどな」

 使い古した上着の袖と、皮が剥がれかけているカバンを半笑いの目で見つめる小千谷さん。


「……津久田さんの場合、額は大して関係ないんじゃないですかね」

「ま、俺もそう思うわ。俺が指輪なんかパカって開いたら、あいつ卒倒するんじゃねえかな」


 けどよ、とようやく到着したエレベーターに乗り込んで一階のボタンを押した小千谷さんは続けた。

「……それがけじめみたいなもんだろ? そんなひょいひょい軽いノリで籍入れられるほど、俺も馬鹿にはなれないな」


 やがて降下を終えたエレベーターの扉が開いて、いつも通りの軽い足取りの小千谷さんが先に降りた。

「そんじゃ、また次のシフトでな、八色。お疲れー」

「お、お疲れ様です……」


 ちょっとボーっとしすぎたせいで、危うく降りる前にドアが閉まるところだった。咄嗟にボタンを押して僕は地下街へと向かいだしたけど……。


「……あの人も裏では色々考えているんだな……」

 珍しくひとりで歩く新宿駅の地下通路。いつもだったら、女子組の誰かが隣を歩いているのだけども。


 今日に関しては、無言でそっと側を歩く愛が重たい女の子もいないし、おどおどと自信なさげに歩く高校生もいないし、ひょこひょこと飛び跳ねるように歩くちびっ子もいない。


「ひとりで帰るのも一年振りとかかもな……」

 街の装飾もクリスマス仕様に仕上がって来ていて、通路の天井に吊られている広告もクリスマスセールの文字が躍っていたり。


 仕事帰りや飲み会明けのスーツ姿の人に混じって、改札を抜けて中央線のホームへ。まだしばらく電車は来ないみたいで、冬の冷え込んだ風に当たりながら、ポチポチとスマホをそれとなくいじり始めた。しばらくって言っても七分くらいだけど。


 ……うう、ポケットから手を出すとさすがに寒い。

 耐えかねてすぐ近くの自販機で温かい缶コーヒーでも買おうかと思ったけど、七分くらいなら我慢するか、と決めて、白い息を吐きだしながらスマホを触る。


 スマホを持つ右手が赤くかじかんできた頃に、やっと電車の接近音がホームに鳴り響いた。それを合図に、僕はある女の子のトーク画面を呼び出した。


 本当は電話で言ったほうがいいのだろうけど、時間も時間だし、きっと今の時間彼女は忙しいだろうから、ラインで済ませることに。


八色 太地:ごめん、今週どっかで時間貰えないかな

八色 太地:話したいことあるんだ


 右手親指の動きをそれで止め、寒さから逃れるように、ポケットにスマホと一緒に右手を突っ込む。滑り込んで来た銀色の車体に乗り込んだ僕は、タイミング悪く座れなかった電車のドアにコツンと背中を預けて、彼女からの返事が届くのを待った。


 電車が新宿駅を発車する頃にスマホがブルっと震えたのを確認すると、次の土曜日の午前中なら、という答えが来た。


八色 太地:場所は? どこがいいとかある?


 静かなモーター音を立てつつ、電車は西に西に進んでいく。途中駅で少しずつ家路につく人を吐き出していき、空いた座席に僕は座り込む。


「……僕の都合がいい場所で、か」

 究極的にはそれって僕の家になるんだけど、さすがに悪い気もするし……。あまり遠い場所にしてもあれだし……。

 なら……。


八色 太地:じゃあ、土曜の午前十時に──


 待ち合わせ場所を指定すると、すぐに了承のラインが返ってきた。

 ……とりあえずいいか。


 半年以上グダグダと保留し続けたけど……。これで、決着をつけよう。

 ……答え、決めたよ。ふたりとも。


 ……一仕事終えた感覚になった僕は、シートの足元につけられている暖房に心地がよくなり、うつろうつろと眠気を帯び始めてきた。

 十分くらい寝られるかな……。そう思った僕は、眠気に身を任せて最寄り駅に着くのを待った。

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