第206話 おぢさんとブーメラン
水上ペースで進んだ朝のひとときはまあ僕目線で言えば何事もなく終わった。……もう僕の貞操さえ守られていればそれは何もなかったってカウントでいいと思います。
キスマークの件はお店の人ほとんどにいじられ、瞬く間に「八色にとうとう彼女ができた」という事実無根の噂が立ち込めてしまった。っていうか、そんなに僕に彼女ができるとニュースになるんですか……? 人の噂も七十五日って言うけど、七十五日経つと僕バイト辞める時期になるんですよね……。あはは……。
そうこうしているうちに、井野さん、浦佐の高校生組は試験が近づいてきたのでシフトの数を減らし、会う機会がなくなってきた。
夜番は基本的にしばらく小千谷さん、僕、水上さんと宮内さんでとりあえず回すことになり、一日二人体制なんて日もざらではなくなった。
そんなさなか迎えた、クリスマスまであと一週間を切ったある日のシフト。この日のシフトは、僕と小千谷さんのふたりだった。……まあ、お互い週五で入っているからね、井野さんや浦佐がいないとなると、こうなる確率が上がるわけで。
「しっかしなあ、八色とふたりだけでお店回すなんていつぶりだ? 一年振りとかな気がするけど」
ふたりカウンターに並んで、それぞれの仕事をこなす。小千谷さんはパソコンの画面とにらめっこを続けながら、手元にあるデジタルカメラの販売価格を考えていて、僕はいつも通り本の値付けだ。
「まあ、八色が辞めた後の夜番は俺のハーレムになるわけだけどな」
「……別に大して喜んでもないですよね? あと、僕の代わりに入る新人さんが男だったらハーレムにはならないかと……」
「そんときは女装してもらうかあ」
……何言っているんだこの人は。
「っておい、そんな顔すんなよ。冗談だよ冗談。寧ろ男が入ってくれないと、俺の肩身が狭くて狭くて仕方ねえ」
「……いや、そりゃこれから入って来るであろう新人さんに女装させるかとか言い出したら不安にもなりますよ。嫌ですよ? 来年の春あたりに、やっぱ出戻りしてくださいってラインがたくさん来たら」
「俺は嫌がらせのように毎日ライン送ってやるからな」
隣で中腰になってパソコンと向かい合う小千谷さんは、ふと僕のほうを見てニッと笑ってみせる。
「俺より先に就職しやがって、うまい酒でも奢れってな」
「……年下に奢ってもらうの、恥ずかしくないんですか?」
「恥ずかしいって感情があるんだったら今頃こんな生きかたしてねえよ」
それはごもっともかもしれませんね……。
「そういえば八色、どっちとくっつくんだよ。井野ちゃんか? 水上ちゃんか?」
「ぶっ!」
いっ、いきなり何を聞いているんだこの人は……!
「そろそろ八色がお辞めになられるということでね? 今のうちにいじり倒したいと思っているんですが、ええ。どうなんでしょうか、そこらへんの事情は。今日は俺以外誰もいないから、いくらでも話聞き放題だし?」
ちなみに、僕に彼女ができた噂、一応否定はしておいたので、公式見解でも事実においても僕は彼女がいないことになっている。のはいいんだけど。
「さては俺が気づかないとでも思ったかー? 井野ちゃんはもうバレバレだし、水上ちゃんだって雰囲気からしてそうだろ。いいですねえ、複数の女の子から言い寄られるご身分は」
「いっ、いや……。それは……」
「決めるならもう決めたほうがいいと思うぜ? 俺に言わせればもうタイムオーバーな気もするけどな。センター三週間前に恋愛で振り回されるのは」
……わ、わかってはいるんだけど……。
「も、もう決めます、決めるつもりですよ……」
「だけど? 何悩んでるんだ?」
「……なんか、一周回って僕でいいのかなって気がしてきて……」
そう答えると、地面を掘る勢いで深いため息をついた小千谷さんは、左足で僕のお尻のあたりを軽く蹴った。
「いでっ。な、何するんですか……」
「お前アホか? っていうか俺の前で言う?」
しかも結構真面目なトーンで怒られた。
「俺、フリーター。お前、内定獲得済み大学生。これだけでもステータスよ。少なからず俺よりは条件がいい物件だぜ?」
「……そ、そうかもしれませんけど」
「まあ、あのふたりはそんな目で八色のこと見てはないだろうけどさ。っていうか、学生のうちからそんな冷めた条件で恋人探さないでもらいたいね。夢を見るのは子供の仕事さ。何においても」
「……水上さんはもう成人してますけど」
「細かいことは気にするな」
え、ええ……? せっかくなんかいいこと言ったふうな雰囲気になっているのに。
「っつーか。人のいいところ探すのは上手いくせに、自分のいいところ見つけるのは下手なんだな、八色って」
「……さ、散々な言いようですね」
すると、今度小千谷さんはポンポンと背中を優しく叩き、続けた。
「自信持てよ。金とか地位とか、そんなの関係なしに好きになってくれた子がふたりもいるんだぜ? 八色がいいって言っているんだ。僕でいいのかなって悩みはセンスがないねセンスが」
おっ、このカメラネットオークションで高値で売れてんな、販売価格強気に設定してもいいかもな、と小千谷さんはブツブツひとりごとを呟いてから、
「安心しろ。お前の悪いところは性癖がおもらしなことくらいだ。それ以外減点要素はねえ」
ぐほっ、と心のうちでうめき声をあげたくなるのをグッと堪えて、僕は買取カウンターにやってきた常連のお客さんの対応に向かう。
「……って、幼馴染の方がおっしゃっているんですがどう思われますか?」
そのお客さんは、笑いながら眉間に皺を寄せて、ドンとやや乱雑に持っていた紙袋をテーブルに置いた。
「ふうん。八色君のほうがよっぽどしっかりしているのに、そんなお説教垂れるんだねえ、こっちゃん」
「え、か、佳織っ、い、いつの間にっ」
「こっちゃんが八色君のお尻蹴ったあたりから」
「それ最初っから聞いているじゃねーかよ」
「うん。聞いてた。もろこっちゃんにブーメランだなあって思いながら聞いてたよ。そうそう、また使わなくなったスマホ何台と本色々持ってきたんだけど、お願いしていい? こっちゃん」
「や、八色でもスマホの買取できるだろ……?」
「これ、最新機種なんで家電のチェックいるやつですね。僕は触れませんね、はい」
「……わ、わかったよ」
ゲッソリとした顔色の小千谷さんと入れ替わり、僕は本の加工を再開する。津久田さんから離れた際、
「でも、八色君が好かれるのは、私も理解できるよ。そこだけはこっちゃんの言う通りって同調しておいてあげる」
そんなふうに僕を評価してくれた。
「……あ、ありがとうございます」
「さて、こっちゃん。……そろそろ将来の話について相談しよっか」
……すぐ側で、小千谷さんの永久就職先のお話が始まった。……お互い様ですね。
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