第209話 微糖のち、無糖
「──ごめん、やっぱり、井野さんと付き合うことは、僕には選べない……」
瞬間、僕と井野さんを取り巻く空間が、少しの間止まった気がした。一分だろうか、二分だろうか、それとも三分だろうか。左目の端に映る横断歩道が、三度目の赤信号を点灯させた頃、
「……え、えっと……それは、つまり……私、振られちゃった、ってことで……いいですか?」
眉をひそめて困ったように笑った井野さんが、僕にそう尋ねる。
「……やっぱり、四つも年下だと、駄目でしたか……?」
決壊しそうな何かを堪えながら、それでも彼女は笑顔のまま、僕に聞く。
「……別に、年の差は大して理由じゃない。そこは、一切考慮してないよ」
「じゃ、じゃあ……やっぱり私なんかと関わるの、実は嫌だったとか……。キャンプに行ってくださったときも、野球を見に行ってくださったときも、遊園地とか、勉強見てくださったときも、本当は嫌々だったんですか……?」
「そんなことない。嫌々なんて、そんなことないよ……」
「で、でしたら、やっぱり乗り物に乗ると吐いちゃうのが」
「……まあ、そこは絶対に加点要素にならないのは事実だけど、致命傷ってわけじゃないよ……」
色々と断られる理由を探しているのだろうか、井野さんはあれこれと頭を働かせては、段々と弱々しくなる声色で続けて僕に質問を投げかける。
「し、仕事ができないとか……」
「あまり関係ないと思うよ……?」
「……コミュ障はやっぱり恋愛対象にはならないですか……?」
「僕にとっては別に……。っていうか、僕とは普通に話せるよね?」
「じゃ、じゃあぼっちなのが」
「よくそこまでスラスラと自分の悪いところっていうか、弱点が並べられるね……」
「……BLが趣味なのが、駄目でしたか……?」
「……他人の趣味を否定できるほど、高尚な人間になった覚えは僕にはないね」
そこまでいって、押し黙ってしまう井野さん。ようやく自分のネガティブな要素が口から出てこなくなったんだろうか。……なら。
「井野さんが嫌いなわけでもないし、鼻血垂れ流すことも、日々妄想に明け暮れていることも、エロいことに興味があり過ぎるのも別に大した問題じゃない」
「ひっ、ひぅ……」
「……ただ、ひとつだけ引っかかることがあったんだ。井野さんと、付き合う付き合わないってことを考えたときに」
「……ひ、ひとつですか……?」
俯いていた顔をゆっくりと上げた彼女に、僕は首を縦に振ってみせる。
「……非日常として井野さんと接するのは凄く楽しいんだけど、これが日常になったとき、僕はそれを日常として受け入れられるのかって、……こと」
「……え、えっと……」
多少抽象的に言ったためか、井野さんはパッと理解はできなかったみたいだ。……センターの現代文もそんな文章が多いから大丈夫。これから具体的に説明するから。
「……僕の周りってさ、よくも悪くも結婚をちらつかせる人が多いでしょ? ……章さんとか、水上さんとか、津久田さんとか、……まああと僕の父親とか」
大学生でここまで結婚を意識させられる生活ってなかなか凄い環境だと思うんだよ……。
「……だから、なんていうか、そのせいで……付き合うイコールなんか、ちゃんと結婚を前提に考えないといけないっていうか。……いや、本来的には正しいんだろうけどね」
社会人が主役の恋愛作品とかだと、結婚を前提に付き合ってください、とかよく聞く台詞だし。……それを大学四年でしている僕って……。そんなノリで恋愛している学生って何割いるんだろうか。一割いる……?
「もし、井野さんと一緒に生活するとして、うまいことやっていけるイメージが僕に湧かなかった。……それだけ、かな」
そこまで話して、僕は一息つくために手元のコーヒーをちょっと口に含む。雰囲気のせいか、口にした言葉のせいか、さっきよりも苦みが増しているようにも思える。
「……他にもさ。井野さんって多分僕と小千谷さんしか男性の知り合いいないでしょ? なんか、少ない出会いで恋人を決めさせていいのかなとか、色々うだうだと悩むことはあったよ。あったけど……、それは所詮僕が無理に作った言い訳に過ぎなくて」
カタ、とカップをテーブルに置き、僕は続けた。
「……一言でまとめるなら、ドキドキはするけど、安心はできないんだろうなあって……思って」
実家があんな感じ(主に美穂だが)だし、バイト先もボケの応酬だし、知らず知らずのうちに僕は安心を求めていたのかもしれない。
「……それが、僕が井野さんを選べなかった、理由」
じゃあ水上さんはそれが完璧なのか、と聞かれれば答えはノーだ。でも、安心できる部分もある、っていうのが、恐らく決め手になったのかな……。
「……詰るなら詰ってもらっていいよ。家ぐるみでよくしてもらったからね、井野さんの家には。章さんのところに話しに行けって言うなら行くし、一発くらいなら殴られてもいい。……多分、それくらいのことはしでかしているから」
低く、穏やかに言うと、目の前に座る井野さんはブンブンと大きく顔を横に振って、
「……もともと、私がわがまま言って、八色さんに決めてもらったんです。相手すらされてなかったのを、ちゃんと考えて返事をいただけたんです。……それなのに、私が八色さんのこと、詰れるはずなんて……」
消え入りそうな大きさの声で、呟く。
「それに、八色さんのおかげでバイトも続いて、浦佐さんとも仲良くなれて、色々楽しいこともできて……なのに、私なんかが、こんなに欲張ったら、駄目だったんです……だから」
「……欲張ってもいいんだよ。求めるのが悪いなんてこと、ひとつもない。……僕が、中途半端だったのが、一番いけないんだから。井野さんは、何ひとつ、間違ってなんかいないよ……」
すると、ぎゅっとスカートの裾を握った井野さんは、目一杯、朝露を花びらのなかに閉じ込めた笑顔を浮かべて、
「……こんなときまで、八色さんは優しいんですね……。そういう人だって、わかってたはずなんですけど……」
手元にあるコーヒーを一気に飲み干した。だからか知らないけど、見せていた笑顔がちょっとだけ陰る。
「……ミルク入れてたはずなんですけど、ちょっと苦いですね……えへへ……」
無理にはにかんだ井野さんは、右手で頬を掻いてから、カバンのなかから財布を取り出し千円札を一枚、テーブルにそっと置いて、
「す、すみません……。今日はもう、帰ります……。ありがとうございました……」
ペコリと小さく頭を下げ、そそくさと荷物をまとめてお店を後にしていった。
「えっ、あっ、お金っ……」
僕の呼び止めむなしく、耳に残るのは、チリンチリンという出入り口に設置された鈴の音と、小さく流れ続けていたBGMの音だけだった。
向かいの席に置かれている、空になったコーヒーカップを覗いて、僕は深く息をついて椅子に座りなおす。
「……でも、こうしないといけなかったんだよな……」
朝から僕の心に忍び込んでいた罪悪感とか、そういった感情が、今更ながら押し寄せてくる。
「……苦いよ、だから」
こっちはミルクすら入れていないんだ。そのままの味が僕に突き刺さる。
僕がその店を出たのは、正午を過ぎて店内が混雑してきた頃でだった。
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