第202話 名前呼びとキスマーク

 じーっと僕と井野さんをしばらく見つめてから、水上さんは音を立てずに僕のほうに近づいてきた。

「み、水上さん……? な、何をされるおつもりなんですか……?」


 っていうか、水上さんの一挙手一投足に注目しているうちに井野さんがますます僕にがっちり密着している気が。制服にしまわれているたわわなものがばっちり僕の両膝に触れられているというか。


 と、一瞬の間、注意を水上さんから外したとき。

「……はい?」

 僕の喉元に、水上さんの瑞々しい唇がまあまあ強く押しつけられた。


「ちょちょ、みっ、みなかみしゃん?」

 困惑する僕には目もくれず、ひたすら水上さんは喉のあたりへのキスを続ける。逃げたくても、膝に井野さんが寝ているから逃げることができないおまけつき。


 っていうか、これ端から見たらこれ僕何者なんだ。メンタルが、メンタルが……。

 テーブルに置いたスマホからは、もうすぐ注文した料理が届きますっていうプッシュ通知が鳴り響く。


 今までこんなに配達が早く来てほしいと願ったことはあるだろうか。お腹がペコペコなときだってそう思ったことなんてない。


 かれこれ三分くらいしてからだろうか。

「──はぁ……」

 そんなちょっと色っぽい声とともにようやく水上さんが僕の喉から唇を離した。


「……ただキスしても意味ないので、こうしてみました」

「こ、こうしてみましたって……」

 鏡見てないから確認はできていないけど、恐らく僕の喉には、水上さんのキスマークが出来上がっていることだろう。


「……明日僕、普通にシフトなんですけど……っていうかこれから配達も来るのに」

「配達は私が受けとるので大丈夫ですよ。あれでしたら、明日のシフト代わりましょうか?」

「……いえ、それはなんか違う気がするのでちゃんと出勤します」


 すると、みたび玄関のインターホンが鳴り響いた。多分、配達が来たんだ。

 さも当然とばかりに水上さんがすっと立ち上がり、玄関へと歩き出す。

「あ、ありがとう……」


 キスマーク云々以前に、井野さんが寝てしまっているので動けないから、普通に助かるは助かる、んだけど……。

 人の家に届いた宅配を受け取るって、限りなく身内感がするのは僕だけでしょうか……。


「……井野さん、井野さん。ご飯届いたからそろそろ起きて」

 と、遠い目をしていてもしょうがないので、僕は膝元に眠られているお姫様を起こしにかかった。


 玄関から台所を通じて部屋にいい匂いが立ち込め始める。ビニール袋を両手に持ったどことなく若妻感漂う水上さんが戻ってきて、テーブルに料理を並べる。


「い、井野さーん……ご飯だよー」

 それでも井野さんはピクリともせずすやすやと寝息を立てたままで、起きる気配すらない。


「……お、起きない」

「お疲れみたいですし、そのまま寝かせてあげていてもいいと思いますよ……? 八色さんには、私が食べさせてあげますので……」


「い、いや自分で食べるよ? 何を言っているの?」

「でも、その体勢でどうやってご飯を食べるんですか……?」

「うっ……」


 正論と言えば正論なので、言い返すことができない。

「い、井野さん。起きてー。ご飯冷めちゃうよー」


 このままでは僕は水上さんにご飯を食べさせられるという、二十二歳にもなってそれは恥ずかしいということになってしまう。


「井野さん……お願い、起きてください……」

 もはや懇願する勢いで僕は声を掛ける。けど、ほんの少しの間、井野さんの鼻がぴくっと動いたように見えた。


「……?」

 もしかしなくても……寝たふり、している……?

 もう背に腹は代えられないので、僕は最後の手段に出ることにした。


「……ま、円さん……。晩ご飯の支度が整いました……。できればお目覚めいただけるとありがたいのですが……」

 限りなく執事っぽく言ってみる。めちゃくちゃ恥ずかしいけどこれしか思い浮かばない。


 隣に座っている水上さんがかなり冷たい目線で僕のことを睨んでいる気がするけどお構いなしだ。一食まるまる「あーん」は精神的にキツい。健康体なら尚更だ。


 僕の捨て身のアタックは効果があったみたいで、膝元の井野さんがクスクスと笑いを堪えるような動きを見せた。


「……井野さん。見えているからね」

「……す、すみません……。で、でも……八色さんがここまで丁寧な口調をしていると思うと可笑しくて……くふふ……」

「……いつから起きてたの?」

「起きてーって言われたあたりで、もう起きてました……」


 もぞもぞと僕の膝から起き上がった井野さんは、僕の膝を「結果的に」借りたお礼を言い、女の子座りでテーブルにつこうとした。


「……あれ? 八色さん。その首の跡って……。さっきまで、ありましたっけ……?」


 ただ、すぐに水上さんがつけたキスマークを視界に捉えたようで、あっという間に表情が慌てたものになる。


「……いや……き、気のせいじゃないかな……」

「ひっ、ひぅ……。も、もしかして……そ、それって水上さんのキスマーク……で、ですか……?」


 顔をみるみるうちに発火させて、僕と水上さんの顔を見比べる井野さん。

「……わ、私とのキスは駄目でも、み、水上さんとはしちゃうんですね……うう……」


 さっきまでの幸せそうな寝顔とは一転、いじけるように落ち込んでしまう。


 水上さんは水上さんで、

「……私だってまだ八色さんに愛唯って名前で呼ばれたことないのに……」

 とぶつぶつひとりごとを言っていて何か怖い。


 す、すみません……それに関しては井野さんのご両親と一緒にいるときに井野さんを井野さんって呼ぶわけにはいかないんです……。それである程度円って名前で呼ぶのに耐性がついたところはあるんです……。水上さんはまだしばらく慣れないと無理だと思います……。


 なんなんだ、この僕のひとつの行動で水上さんと井野さんにダメージが入る珍しい現象は。


「と、とりあえず、ご飯、ご飯食べよう? さ、冷めちゃうよ?」

「は、はい……」

「そうですね……」


 がっくりした様子でもそもそとご飯を食べ始めるふたり。


 ……悪いの僕? いや、僕も悪いかもしれないけど、みんな悪いよね? ふたりはお互いを出し抜こうとしたことの、僕は井野さんと水上さんのアタックをそれぞれ甘んじて受け入れてしまったことの罰ですよね?


 喧嘩両成敗とはまた違うけど、裁かれるべくして裁かれたんだよね? 僕たちは。

 そういうことに、しておこう……。


 晩ご飯を食べ終えた後、なんとなく下がったテンションで勉強は再開されて、話していた通り水上さんの終電が近くなるまで僕らはカリカリと各々のやるべきことをこなしていた。

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