第201話 ちょんちょんとトントン

 前話していたように、井野さんはセンター試験の国語(というか主に現代文)を、水上さんは授業の教科書となる単行本を広げてパソコンのキーボードをカチャカチャ叩いている。


 ふたりがそうしている間、僕はベッドに放り投げていた読みかけの単行本を読んで読書に勤しむだけど……。


 いや、普通に落ち着かないよね。そりゃそうだ。だって井野さんは高校の制服なんだから。バイト先でも夕礼前とか帰宅のときとかに見てはいるけど、長時間続けて見るとなると、初めて井野さんのお家にお邪魔したときとか、水上さんの家で勉強会をしたとき以来だろうか。

 ……今回は自宅、ということもあり、尚更心臓に悪い。


「……あ、あの……八色さん」

 そう思っていると、井野さんの右手がそっと伸びてきて、僕の左肩をちょんちょんと叩いた。


「ん? どうかした?」

 読んでいた本を閉じて、僕は体半分くらい井野さんに寄せて彼女が指さす問題に目を移す。


「そ、その……この問題がどうしてこの選択肢になるかわからなくて……」

 井野さんが聞いてきたのはセンター試験の大問2だ。つまり小説の分野。……っていうか、これ話題になった「おっぱい」の年の過去問じゃ……。


 少しの間固まったのち、気を取り直して僕は本文に目をやる。

「え、えっと……センターの選択肢って、大抵間違っているのは明らかな嘘を書いていることが多いから、それを軸に消去していけばよくて……」


 などと、四年前の知識を総動員して井野さんにセンター国語の解きかたとか読みかたを教えていく。……一か月前に教えて間に合うのかどうかは知らない。点を取れば試験においてそれは正義だからね。


「あ、ありがとうございます……おかげでスッキリしました……」

「いえいえ……また何かあれば……」


 井野さんの用事が終わると、今度は僕の右肩がトントンと叩かれる。

「は、はい何でしょうか」

 視線を制服からカラフルな私服に移すと、目の前には三冊くらいの単行本と文庫の山が。……小説と評論の本かな。


「現代文学の授業で、性愛を描いた小説について自由に論じるレポートが出たんですけど……」

「ぶほっ」


 せ、性愛って……。いや、今水上さんが積んでいる本、高校生のときに読んだけど、まあ濡れ場あったよね、うん……。


「み、水上さんって文学専攻だっけ……?」

「いえ、違いますけど」


 ……これは、僕と履修範囲が被ることを期待して取ったのだろうか。僕の専門は古文とは言え、必修の単位に現代文学の科目があったからわからないわけではない。

 しかし、水上さんの大学の先生、結構性愛系統を扱う人が多いんですね。前期も近親相姦とか色々濃ゆい古文を扱った授業取ってたし……。


「とりあえず、パッと思いつく恋愛小説を二冊ほど図書館から借りたんですけど……論点をどうしようか悩んでいて……」


「……まあ、単純に二冊の比較くらいでレポートにはなると思うよ。手元にあるの、発表された時期は十年くらい差があるし、それくらい違ったら時代性の変化とかにも言及できるだろうし。ひとまず、登場人物の関係性とか、……せ、性交渉に至る経緯とかまとめてみればいいかと、思います……ん?」


 何か視線を感じたので、ふと井野さんのほうを振り向くと、

「……鼻血、ルーズリーフに垂れているよ。井野さん」

「ひゃっ、ひゃいっ」


 僕は近くに置いてあったボックスティッシュを手渡す。……そんなに鼻血出すような場面だった? 性交渉って単語すら駄目なら、僕はどうオブラートに包んで表現すればいいのでしょう。そもそもその手の話をしてはいけないってことなのかな。


「……す、すみません、最近漫画我慢していて……それで」

 僕はよくわからないんだけどさ、鼻血も我慢していると出やすくなるみたいなことがあるんですか……? 


「そ、そっか……」

 試験中に鼻血とか出さないよね……なんか不安になってきたよ。血まみれの答案用紙を提出する未来が、見えなくもない。


 その後、何回かふたりから質問が飛んできて、それに答えて、と繰り返しているうちに、夜の七時になった。


「そろそろ晩ご飯の時間だけど、どうしようか……? というか、ふたりは何時に帰るの?」

「わっ、私はご飯いらないって言って家出たので……帰りは……どうしようかなって……」

 チラチラと井野さんは水上さんの様子を窺いながら、そう返す。


「……私は終電で帰れればそれでいいので……」

「ひぅっ……。でっ、でしたら私も水上さんと同じタイミングで帰りますっ」


 これは……水上さんより先に帰って水上さんに主導権を渡すのを嫌いましたね。わかるよ、前科あるもんね、水上さんは。


 単純に終電は遠い水上さんのほうが早いので、水上さんの終電で井野さんは家に帰ることができる。多分あのご両親なら、僕の家に行っているならこれだけ遅くなっても何も言わないと思われるし……。……別の意味で信用されているしね。


「……そうですね。八色さんの家から駅まで、夜道は暗いですし遠いですし、、歩いたほうが安全ですよね。じゃあ、そうしましょうか」


 嫌な強調したなあ……。前科、という意味では井野さんは帰ったと見せかけてまた家に戻るということをしばしばするから、水上さんはそこを塞ぎたいわけで。

 ここでも牽制し合っているな……。


「じゃ、じゃあ晩ご飯はどうしようか……って言っても、何かあるわけでもないから、デリバリーでもしようかなって思ってるんだけど」

「いいんじゃないでしょうか」

「は、はい……それでいいです、私は」


 というわけで、夕飯は駅の近くにあるファミレスを、最近流行りのデリバリーサービスで注文することにして、待っているうちは勉強を休憩することにした。


 ただ……井野さんは日頃の勉強疲れもあるようで、テーブルの側で座り込んでうたた寝を始めてしまう。


「すぅ……すぅ……」

 穏やかに寝息を立てている井野さん。まあ、料理が届くまで休ませてあげていいか、と僕は思って、そのままにしてあげていたのだけど、


「……んん?」

 わざとなのか偶然なのか、コロっと倒れ込む要領で井野さんは僕の膝上に頭を落としてきた。


「ちょっ、あのっ、いっ、井野さんっ……」

 気持ちよさそうに胸を上下させて井野さんはお休みしているけど、その間水上さんに怖い目で見られるのは僕なんだよ……。


「いやっ、これは事故というかっ、僕は何もっ……」

「井野さんがそう出るのであれば、私にだって考えがあります……」


 ひっ、ひい。水上さんの目が本気だ。

 井野さん、あなたは僕に甘えられて、しかも寝ることもできていいかもしれないけど、僕は胃が痛くなるだけなんだよ……。

 ああ、何をするつもりなんだ、水上さんは……。

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