第198話 ネット音楽の主人公みたいな状況

 スタッフルームから共用のエレベーターホールに飛び出すと、今にも浦佐がエレベーターのドアを閉めて、帰路に就こうとしていた。


 間際の間際になって視界に現れた僕の姿を見つけた浦佐は、何かを我慢しているような顔つきでぎゅっと横に視線を逸らして、閉めるボタンに指を差し出した。


「だから、ちょっと待ってってっ!」

 そうはさせじと、僕はエレベーターの外に着いている「▽」ボタンを連打。閉まりかけのドアに足を挟むよりかは確実に安全だろう。子供の頃に見た国民的アニメの劇場版のキャラみたいなこと、実際にはそうそうできないし。僕には。まあ、エレベーターで遊んじゃいけませんって怒られる内容だろうけど。


 人の体半分くらいまで閉まりかけていたドアは、再び開き、隅にちぢこまっている浦佐の姿をよりはっきりと僕は視界に残した。


「……なんすか、ドラマみたいな台詞言って」

 確かに似ているなとは思ったけど今言う? それ言う? なんでこんなときまで突っ込みさせるかな。


「自分、帰りたいんすけど」

「……せめて、帰りたいなら僕の見えないところで泣いてもらっていいかな。……あと、単純に僕は話の途中のつもりでいる。言いたいことはまだあるし……」


 浦佐はするとハッと両手を目にもっていって、ごしごしと擦り始める。

「なんで、泣いてないのに、気づいているんすか、センパイは」


 しかし、我慢しているのだろうから、まだ涙は零れていない。きっと、僕が見つけたのは不意に漏れてしまった一滴の零れてしまった本音だろうか。


「……どうだか。でも、浦佐とは一年以上の付き合いだし、普段涙とは無縁の生活をしている浦佐が、そんな顔するなんて、僕に言わせればもう泣いているようなものだろ?」


 不意に、エレベーターから鈍い警告音が鳴る。長時間停止させていることによる注意だろう。


「……一回降りてよ。どうせ、そんな顔のままで僕が帰すわけないって、浦佐ならわかるだろ? 僕だって、無駄に泣かせたくなんてないんだから。……慰めるなんてことは、マッチポンプだし、僕にその資格なんてないけど……話くらいは、聞きたい。あんな、ちょっとの言葉の往復だけで済ませたくはない。僕の勝手だけどさ」


 散々バイトで涙目になった井野さんの親友なら、知らないはずがない。

 仕事で何度も何度もやらかして、その度に泣きそうになった井野さんを担当したのは、僕だ。そして、その様子を一番知っているのは、井野さんと一番仲が良い友人の、浦佐に決まっている。


 なら、知らないはずがない。泣いたら、僕がそのままにするはずないって。


「このまま帰ったら、お店に鍵もセキュリティーもかけないまま僕は浦佐を追いかけるし、京王線の改札内だって入るし、ライン連投だってするし、それでも無視するんだったら動画にコメントしてでも突撃するけど」


 半分脅しのようなものだ。僕にそんなことやれるはずがない。でも、浦佐にとっては効果的のはずだ。


「……仕方ないっすね。センパイがそこまで言うなら」

 観念したのか、浦佐は肩をすくめてとぼとぼとエレベーターを出て、ちょこんと力なくエレベーターホールの地面に背中を壁に預け、足を三角に折って座った。僕もそれに合わせるために、彼女の隣にしゃがみ込む。


「……今でも思ってるっすよ。恋愛は、自分にとってはノイズだって」

 落ち着いてはいるみたいで、普段通りに口振りで、浦佐はぽつぽつと僕に話をし始めた。


「一番好きなのはゲームだし、ゲーム以外に時間なんて割きたくはないっすし。恋愛なんてそれの極致っすよ。するだけ時間の無駄って、思っていたはず……なんす」


 壁と床しかないエレベーターホール、ふたり並んで座り込む薄暗い空間に、くぐもった声が続けて聞こえた。


「……センパイが両親からゲームを守ってくれたとき、何か、ザザッて大きい音が心のなかで鳴ったんす。……おじいちゃんの家にあったような、古いテレビの砂嵐に近いような、そんな音が」


 こんなときでも、浦佐の例えはそのままだ。それだけでも、ほんの少しだけ、僕は安心してしまう。


 今、浦佐をこうさせているのは僕だと言うのに。


「最初は気のせいだって思うようにしてたっす。そんなはずないって。でも……、耳を塞いでもノイズは聞こえるっすし、逆に塞ごうとすれば大きくなるっすし。円ちゃんや水上さんが、センパイと、ただの先輩後輩以上に仲良くしているのを見ているうちに……モヤモヤが大きくなって……」


「僕の家に押しかけるように、なったってこと? ……それで、今日に至ったってこと?」

 口を挟むと、コクりと浦佐は首を縦に振った。


「……でも。でもっすよ。わかってはいたんす。わかってはいた、はずなのに……」

「……ん?」


 浦佐はふと、精一杯、今度は確実に涙を堪えながら斜め上を見上げながら言ったんだ。


「自分は、円ちゃんと同じ人を、好きになっちゃったんだって」


 僕はその言葉を黙って聞き、続きを待つ。


「円ちゃんが高校でぼっちなのは自分も知っているっす。バイトも続かなくてコミュ障で、ひとりでカップリングの妄想をして鼻血を出すような子なのもわかってるっす。むっつりどころかがっつりヘンタイさんなのも知ってるっす」


 ……おう、親友に対して散々な言いようだな。事実なんだけどさ。


「けど……だけど、それでも。円ちゃんは絶対人のことを馬鹿にしたりしないし、自分が無謀な夢持ってることだって、笑わずに聞いてくれたっす。無関心でも、嘲笑でも、冷やかしでもなく、真剣に聞いてくれたのは、円ちゃんだけっす」


 ……まあ、僕も初めて聞いたとき、ちょっと驚きはした。その際はここまで浦佐と長く関わるなんて思っていなかったから、深掘りはせず、当たり障りのない反応をしたのを覚えている。今の例示で言えば、無関心に該当するかな。零点ではないけど百点でもない対応だろう。


 井野さんは、彼女自身が漫画を描いているっていうのもあって、その手の話に親身になれたのかもしれない。そもそも自己評価が極端に低い子だからっていうのもあるだろうけど。


「……そんな円ちゃんが、太地センパイに本気で恋しているの、知ってたっすから……。知ってたからこそ、裏切れるはずなんて、ないっすよ……。自分はノイズとしか思ってないっすけど、他人がそうじゃないことくらいは知ってるっすし。……まさか、自分がネット音楽の主人公みたいなことになるなんて、夢にも思ってなかったすよ」


 あれだけ浦佐が言うように、井野さんがわかりやすいがゆえに、浦佐自身はかなり板挟みになっていたのだろうか。……今、それを聞くのは野暮がすることだけど。


 鼻をすする音が、何もない空間に響いた。僕は隣を見ることなく、そっとポケットに入れていたティッシュを渡す。


「……どうもっす」

 何回か鼻をかむ音がして、それが終わってから、

「……円ちゃんに、なんて言えばいいっすかね……」


 浦佐は、ぐじゅぐじゅになった声で、呟いた。

 自分が振られた後だと言うのに、考えることは、自分のことでもなく、振った僕への恨み言でもなく、自分の友達のこと。


 非常時に人間の本性が現れるとはよく言うけど、つまるところ、浦佐操とは、そういう人間だ、ということなのだろう。


「こんな、恋愛なんて興味ないよってフリしておいて、裏でこんなことして……どう顔を見ればいいっすかね……」

「…………」

「散々自分は普段から好き勝手やってるくせに……円ちゃんには、嫌われたくないんす……自分」

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