第195話 水上さんvs井野さん(第1ラウンド)

 その日以降、水上さんは完全に元の調子を取り戻して、この間のような単純なミスはしないようになった。いや、それに関しては本当にありがたい……。

 ただ、水上さんが元通りになると、何が起こるかというと……。


「……そういえば、八色さんってクリスマスの予定はどうなっているんですか?」

「え?」「ひっ、ひぅ……ひゃ、ひゃい……?」


 ある日の夕礼前のこと。僕と水上さんと、井野さんがシフトの日で、当然井野さんも居合わせているときに、水上さんはそんなことを聞いてきたりする。


 うん。正しい。間違ってないよ? だってね? 僕が明確にどっちか選びますって言っているんだから、距離詰めようとして当然だもんね?


 でも、せめて井野さんの聞こえないところで聞いて欲しかったな。これじゃ、僕の胃痛が……。


 僕は、左に座ってセンター英語の文法問題を解いている井野さんにチラッと視線を寄越す。と、


 井野さん、明らかに動揺しているよ? だって、さっきからシャーペンの芯が折れる音ばっかり響いているよ? 規則正しいリズムを刻むペースで。


「……そ、そうですよね、水上さんだって八色さんとクリスマス一緒に過ごしたいですよね……わ、私なんてそんな……」

 ああ、ほら、なんかみるみるうちに顔色がブルーになってきているし。


「え、えっと、クリスマスは……まだシフトわからないし、もしかしたら大学の友達から何か誘われるかもしれないし」


 このままだと今度は井野さんの精神状態が可哀そうなことになってしまうので、ひとまず誤魔化すことに。


「……大学のお友達って、合コンとかですか?」「ひゃうっ!」

 誤魔化したいのに、誤魔化させてくれません。これが安心安全の水上クオリティでしょうか。ついでに井野さんのシャーペンが折れることを止めません。折れた芯の山が出来上がり始めているけど大丈夫かこれ?


「そ、その可能性は無きにしろあらずだけど……合コンだったら断るよ……」

 このタイミングで合コンに行けるほど、僕は図太くないし。


「そうですか。……私も大学周りの知り合いから、結構合コンに誘われたりしていて、八色さんもそうなのかなって思っただけなんで。……安心しました」


 その口振りだと、水上さんは端から断っているみたいですね。まあ、なんとなく想像はつくけど。人数合わせでも絶対に行かなさそう。だって、愛唯だもの。……なんか詩人みたいになっちゃった。


「あらあ、クリスマスの話? いいわねえ、楽しそうで」

 すると、これまた例によって話に燃料を投下するタイミングで宮内さんが売り場からスタッフルームに入ってきた。両手に何やら大きな段ボールを抱えている。


「太地クンはクリスマスにデートでもする予定はあるの?」

「ぶっ!」


 期待を裏切らずに油をぶちまけてくれますね、宮内さん。折角うまい具合にちょっと話が逸れかけたのに。


「え、えーっと……未定です……」

 痛い、こっそり両方向から視線が飛んできているのがわかるから痛い。待って、もうちょっと待って。今考えているから待って。


「あら、太地クンだったら引く手数多だと思うのに。そうなのねえ、ふーん。予定がつかなかったら、ワタシ行きつけのバーでも連れて行って、あげるわよお」


 宮内さん行きつけの、って時点で、相当濃ゆいお店なんじゃないかって思う……。できれば、知らないまま人生を過ごしたいです……。僕の突っ込みが追いつく気がしないです。


「い、いえ……。予定は作るつもりなんで……はい」

 ああ、この一言でまたふたりの瞳がキラっと光ったのを僕は見逃していない。


「クリスマスを純粋に楽しめるのは学生くらいまでだから、今のうちに満喫しておいたほうがいいわよ? 働きだすと、クリスマスなんてただの平日になっちゃうから」


 ……世知辛い一言ありがとうございます。宮内さんが言うと説得力しかないから身に沁みる。……ゴールデンウイークもお盆も年末年始もクリスマスも働いているんだぞ、この店長は……。


「太地クンも、来年からはクリスマスのイルミネーションを終電で見る羽目になったりしてね」

「あり得そうな未来をあまり考えたくないんで今はやめてもらっていいですかその話」

 僕の就職先、まだブラックかどうかわからないし。


「まあまあ。ここのバイトが居心地いいって言って、就職でここ退職したけど出戻りした人なんて何人もいるし、太地クンだったらいつでも歓迎よ。面接なしで即採用してあげるわあ」

「……仮に仕事辞めたくなってもここには絶対出戻らないです。小千谷さんに煽られる気しかしないんで」


 「やーいやーい、俺と同じフリーター」「一緒に競馬とサッカーくじ始めようぜえ」とか言ってめちゃくちゃ絡んできそう。


「あ、そうわよね。太地クンはヒモにもなれるのよねー。なら安心か」

「……なんでそうなるんですか、ヒモにも絶対ならないですからね、ほんとに」


「はいはい。生きかたは人それぞれものねえ。そういえば、そろそろ井野さん、お休み増やさなくて平気なの?」

「ひゃっ、ひゃい……。つ、次のシフトの提出分から週一に減らすつもりで……センター二週間前になったら完全にゼロにするつもりです……」


 そろそろ夕礼の時間になったので、井野さんはおずおずと広げていた参考書類を片付け始めている。一連の流れで出来上がった芯の山を見て、ちょっと遠い目をしているけど。


「あら、そこまでは週一で出てくれるのね。助かるわあ。ってことは浦佐さんもそんな感じなのかしら」

「う、浦佐さんも同じにするって言ってました……」

「まあ、ふたりがいない間はワタシも夜番になって閉店までいるようにするから、大丈夫よ。よし、じゃあそろそろ夕礼にしましょうか」


 宮内さんの一言で僕らは一斉に立ち上がって、腰につけるエプロンを巻いたり、名札を付けたり、それぞれ準備をする。

 また、今日も一日の勤務が始まる。


 勤務中は真面目に仕事をこなしていたので、特にこれといったことは起きなかったけど、やはり退勤後になると色々動きが発生する。


 お店を出て新宿駅へと三人で並んで歩く途中、

「……や、八色さんって、センター試験は受けられたんですか?」

 井野さんが恐る恐るといった様子で僕に尋ねた。


「う、受けはしたけど……それがどうかした?」

「こっ、国語って、何点くらいだったんですか?」

 これは……なんとなく、井野さんが何を言いたいのかわかった。


「……は、八割ちょいくらい……かな。今解いたらもっと下がるだろうけど……」

「あっ、あの、古文は春に教えていただいてからよくなったんですけど、現代文が最近駄目で……現代文って、八色さん専門外ですけど、得意だったりしませんか……?」


 うん、わかってた。水上さんのプレッシャーに反応した井野さんが動くとしたら、この時期は勉強しかありえない。そうでないと、僕が断ってしまうのが見え見えだから。


「……ま、まあ、現文もできなくはないけど……」

「八色さん。私もそろそろ後期のレポート提出が近くて」

 この流れ、経験したことがあるぞ? 水上さんの家で勉強会したくだりだ。


「色々聞きたいことがあるんですが」

「「あの、どこかで時間貰ってもいいですか?」」


 ……これは、宣戦布告というか、そういうことで、よろしいでしょうか……?

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