第192話 十五分だけください

「あー、小千谷さん、十五分だけ時間貰っていいですか?」

 見るに堪えないくらい落ち込んでしまっている水上さんを見て、状況を俯瞰していた小千谷さんに僕は確認する。


「へいへい。十五分でも三十分でも一時間でも好きにしな」

「……一時間はお店が閉店しますから」


「そんくらいじっくりやっていいよってことよ。どうせ閉店間際なんて大したこと起きないし」

「それはありがとうございます、って適当に返しておきますね。……ちょっと売り場離れようか、水上さん」


 ちょうどレジに来るお客さんから見えるか見えないかくらいの位置に立ち尽くしていた水上さんにそう言い、僕は売り場とスタッフルームを繋ぐビルの共用廊下に出る。


 空調の効きが鈍くなり、冷え込んだ外気とも繋がるこの部分は、長い時間立ち話をするには不向きな場所だけど、こういうお話をするには適している、と思っている。スタッフルームだと、電話が鳴ったときの呼び出し音で気が散ってしまうから。まあ、この時間だと鳴らないと思うけど。あと、もし小千谷さんひとりで駄目になったときに、できるだけ近い場所にいたいっていうのもある。


 僕に遅れること十五秒、力ない動きで水上さんが廊下に入る。

「……さて、と」


 仕事のお話は勤務中に終わらせたい。退勤してからグチグチ言いたくないし言われたくもないし。休憩のときも。とくに、こういうマイナス方向にベクトルが振り切っている話は。雑談の流れとか、どうしてもってときは別に気にしないけど。


 そんな大それた話をするつもりはないよ、という意思表示のために、わざとらしく壁によしかかって、あえて軽い調子で僕は続ける。


「とりあえず、怒るつもりは全くないのでそこは安心していいよ。僕が怒るのはそうだなあ、しょうもないことしたときくらいだから」


 ……女子高生に避妊具渡したりとか。っていうか、そろそろ僕が怒るラインの改定をしたいんですけど、いかがでしょうか。あ、女子大生に避妊具、とかそういう問題ではなく。しょうもない、のレベルが限りなく低いんだよな……ほんとに。


「それに、怒って解決もしそうにないしね。水上さん、普段はそんなミスなんてしないのは知っているし、そういうのやらかして僕に怒られているのはどっちかって言うと浦佐だし」


 水上さんは俯いて押し黙ったまま。不貞腐れて口を開かない、というよりは完璧に凹んで喋れない、というのが正しいだろうけど。


「……僕も一年目二年目はたまにそういうことやらかしたよ、なんて話も意味ないか。問題はそこじゃないもんね」


 井野さんだったらこの話でどうにかなったかもしれないけど。

 ……恐らく、これを解決するにはしばらく水上さんが抱えている問題を話してもらうしかないんだよな……。


 でも、本人は誤魔化してしまう。と、なると。

「……そういえば最近、僕のところにいきなり八木原君から電話がかかって来たんだけどさ。……どんな用件だったか、知りたい?」


 外道だけど、彼の名前を利用させてもらおう。

 僕がそう言うと、今までほとんど無反応だった水上さんが、少しだけ顔を上げて瞳を揺らせた。


「……え、えっと……それは……」

 そして、ようやく湿り気を帯びた声を震わせて、彼女は重たい口を開いた。

「それは……」

 口ごもってしまう水上さん。あまり意地悪するのもあれかな。


「まあ、あーちゃんから相談したいことがあるって、聞いただけなんだけどね。相談の内容までは知らないし、それは八木原君から聞くことだし」

「…………」


「……いいよ。ゆっくりで。でも、さすがに今日みたいなことが起きたから、これ以上は見過ごせないかな。『大丈夫』じゃなかったわけだし。別にこの十五分で無理なら、この後どこか行って話すとかでもいいから」


 僕がそこまで話すと、水上さんはパクパクと音になっていない声を二、三あげては、ふらふらと視線を僕の顔に向ける。


「僕は嫌だって言うなら、小千谷さんでも、多分津久田さんでも聞いてくれると思うけど」

「いっ、いえっ……嫌ってことは……」


「……じゃあ、話せるよね?」

 なんか、嵌めたみたいになっちゃったけど、いいか。


 こうなってしまうと、もはや水上さんに残された選択肢はひとつしかない。

「……わ、わかりました……で、でも……この時間では……」


「オッケー。じゃ、バイト終わったらどこか適当に寄っていこうか。話はそこからだね」

 とりあえず、ここまでこぎつければ、なんとかはなるかな……。


「あと八分くらいあるから、ちょっとゆっくりしていていいよ。僕はもう売り場戻るからさ」

 僕は一足先に売り場の出るドアに手をかける。


「……はっ、はい」

「落ち着いたら戻っておいでよ。今日はあとやることは閉店作業くらいだし」

「……わ、わかりました……」


 変わらず表情は冴えないままの水上さんだけど、さっきより声は出るようになった。少しは整理がついたのだろう。


 そんな彼女を背中に残し、小千谷さんがいるカウンターに戻る。カウンターの後片付けをしていた小千谷さんに一声かけて、もうスタッフルームに戻っていいことを伝えると、


「そんで? 水上ちゃんは大丈夫そう?」

 いつになく真面目な顔つきの小千谷さんが言い放った。こういう空気は読む人だ。目の前の先輩は。


「……まだ大丈夫ではないですけど、退勤してから話してくれるみたいなんで、いいかなって」

「ま、ならいいんじゃない? 俺は俺でバックから水上ちゃんが大泣きしてその声が売り場まで入るんじゃないかってハラハラしてたんだから」


 僕の説明を聞いて安心したのか、すぐに普段の適当な小千谷さんに戻って、軽口を叩く。


「……どんな鬼上司なんですか、僕は……。そんなの僕の柄じゃないですよ」

「わかってるわかってるって。ただまあ……割と冗談抜きで大泣きするくらいの発散はさせたほうがいいとは思っているけどね、俺は」


「大泣きするかどうかはともかく、全部吐いてもらうつもりではいますけどね」

「うひょー、八色先生、ドSだなー」


「……じゃないとまた今日みたいなことしでかしますよ。僕がいないときにやると頭下げるのは小千谷さんになりますけど、平気ですか?」

「いや、それは勘弁してくれ。仕事ならやるけど回避できるなら回避したい」


「……回避させないといけないんで、そういう観点で言えば鬼にもなりますよ。僕は」

「そんじゃ、俺は家電の後始末して来るわ。あとはよろしく」


 蛍の光が流れ始めた店内を、小千谷さんはそう言い後にしようとする。

「すぐそこに水上さんいるかもしれないんで、変なこと言わないでくださいよ」

「はいはい。俺みたいな適当なキャラの先輩は、いつも通り適当に『お疲れー』って言うのがこういうときの仕事だよ。井野ちゃんのときもそうだったし」


「……助かります」

「いいっていいって」


 ほんの少しの間だけ、キリっとした顔つきをしてバックに引き上げていった小千谷さん。閉められたドアの向こう側からは、宣言通り適当な調子の「お疲れー」が微かに聞こえてきた。


 計算された適当のありがたみを、今が一番体験しているかもしれない。

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