第186話 地雷を踏みぬいた八色くん

八色 太地:ちょっと、ラインだと長くなりそうだから、電話でいい?

水上 愛唯:大丈夫ですよ

八色 太地:場所変えるから、五分だけ待って


 僕は踏み入れかけていたアパートの敷地をくるりと引き返して、近くにある公園に向かいだした。部屋の壁はまあまあ薄いので、電話も場合によっては隣に筒抜けになってしまうこともしばしば。……まあ、だとするならバイトの同僚の方々が僕の部屋に来ているときの一部始終も筒抜けってことになりますが。


 真っ暗闇のなかにポツンと浮かぶ街灯のある公園、入口から一番遠いベンチに僕は腰かけた。

「さて……」

 ちょっと緊張した面持ちで、僕は水上さんに電話をかける。


 これから、ついさっき井野さんに話したことと同じことを、水上さんにも話すのだから。

 十月から十一月へと暦を動かしかけているなか、少し震える指で画面をタップして、耳元にスマホを当てた。


「──もしもし、ごめんね、遅い時間に」

 数秒と経たずに電話は繋がって、スピーカーからは水が跳ねる音が聞こえて来た。……ん? 水?


「いえ……全然大丈夫です。ちょうど授業の小レポートを終わらせたところだったので……」

 あ、またちゃぽんって音が響いた。……これって、もしかしなくても……。


「ねえ、水上さん……今、どこで電話しているの?」

「……家のお風呂ですが、それがどうかしましたか?」

 よしオッケー、一回頭の整理入りまーす。


 どうして僕の周りには真面目な話をしようとするとすぐ空気をぶち壊す人が多いのかな? そんなに真剣な話聞くの嫌い? それとも単に僕が嫌いなだけですか?


「……えっと、じゃあ、ラインもお風呂のなかから?」

「……はい。勉強で疲れたのでお風呂でゆっくりしていたら、ちょうどお店の営業時間過ぎてから時間が経っていたので……」


 あー、オッケー、把握しました。なんか、わざわざ公園まで移動した僕が馬鹿馬鹿しく思えてきた。

「……ところで、電話のほうがいいお話って……何ですか?」


 完全に空気は僕のなかで壊れているけど、話はしておかないといけない。……でも、お風呂入っているときにする話か?


「……え、えっと……」

 で、でも話すって決めたときに話さないと後回しになって、そのまま話さず終いとか、第三者からこの話が伝わってややこしいことになったりとか、ろくなことにならないだろうし……。

 仕方ないけど、今しておこう。


「……ね、年末までに、決めることにしたんだ」

「…………。……な、何を、でしょうか……?」


 しばらくの間、時折水滴が水面を叩く音だけが響いていたけど、絞り出すように電話の向こうの彼女はそう返した。


「……知っているかどうか僕はわからないけど、また、井野さんに『好きです』って言われたんだ。……これ以上保留し続けるのもよくないって思ったから、水上さんへの返事も諸々含めて、年末までに決めるってことにしたんだ」


 今度は、さっきよりも長い間、水上さんは口を開かなかった。思い出したかのように、たまにお湯が流れる音がするけど、声は聞こえない。


 僕は、どうかした、と聞くことはせず、ただただ水上さんの返事を待つ。

 かれこれ五分くらいしてから、


「……そ、そうなんですね……。ちょっと、期限が早くなったんですね……私は気にしませんけど……」


 やや上ずった声で彼女はそう答えた。普段からあまり声色を変えることがない水上さんが、珍しくちょっと変化を見せた。


「あ、あのさ……自分で聞くのも変な話なんだけど……まだ、水上さんって、僕のこと……好き、なんだよね?」


 前提の把握もこめての、軽い意思確認のつもりで僕は続けた。

 でも、その問いは、「えっ」という短い水上さんの悲鳴を誘発し、一瞬僕の心臓が跳ねるきっかけにもなった。


「……何を言っているんですか八色さん。そんな簡単に気持ちが変わるはず、ないじゃないですか」

 すぐに水上さんもこう言ったから、僕は心のなかでホッと胸を撫で下ろした。


「そっ、そうだよね。うん、な、ならいいんだ」

 話の流れも切れて、さらに電話先の水上さんは今入浴中ということもあるので、あまり長話はせずに、


「じゃ、じゃあそろそろ電話切るよ。ごめんね、お風呂中に」

「……いえ」

「お、おやすみ」

「……はい、おやすみなさい」


 そうして、ある程度は短い時間で、僕は水上さんとの電話を終わらせた。

 これで目下の問題はひとまず解決して、あとは僕が選択して、ひとりで帰省するのかふたりで帰省するのかを決めるだけ、と思っていたのだけど……。


 井野さんの誕生日から数日後の平日の出勤前。


 夕礼の十五分前くらいにスタッフルームに入ると、先に到着していた水上さんが席に座ってスマホをいじっていた。いつも通りの光景なので、特に何とも思わず「お疲れ様です」と言い横を通り抜けて更衣室に入ろうとしたのだけど、ある違和感に気がついた。


 いつもだったら、すぐに水上さんは返事を言ってくれるはずなのに、今日はそれがない。

 少し不思議に思い、ロッカーにカバンを入れて、様子を窺いに近くに寄ると、


「……み、水上さんっ? ど、どうしたの? そんなに目を腫らせて……」

 上手い例えが浮かばないけど、ハチに刺されたのって思ってしまうくらい真っ赤に目を腫らせた水上さんが、無表情でスマホの画面を眺めていた。


「……あ、八色さん。お疲れ様です……」

 ワンテンポ遅い挨拶。こ、これは明らかにおかしいって……。今までのはなんか変だなあくらいだったけど、これは明らかだ。


「だ、大丈夫? 目が真っ赤だけど……」

「え、あ、これは、昨日ちょっと寝る前に映画見てたんですけど……それがあまりにも悲しい内容で、ちょっと泣きすぎちゃったんですよね……それで……」


 なんだろう、この嘘とも本当ともつかない説明は。下手に突くこともできない。


「そ、そうなの……? む、無理して出勤しなくても……」

「体調悪いわけでもないので、平気です。むしろこんなことで休むほうが気分悪いので」

「……な、ならいいんだけど……」


 釈然としないまま僕は更衣室に入って着替えを済ませ、そっと水上さんの近くの椅子に座ってとりあえずスマホをいじり始める。


 水上さんが映画を見るってあまり聞かないんだけど……どうなんだろう。そもそもあまり感情の起伏が大きくないように思える水上さんが、映画を見たくらいであそこまで目を腫らせるだろうか。


 数分後、休憩のためにスタッフルームに来た小千谷さんが僕と似たようなリアクションを取ったのは、言う間でもないと思う。

 ……な、何があったんだろう……水上さんに。

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