第185話 恋心の吐露と引火の予感

 ほんのりと甘い柔軟剤の香りが鼻の下を直接くすぐって、さらにはこっそりそれなりに成長している井野さんのふたつの膨らみがギュッと押しつけられていて、脈拍は一気に速くなっている。……まあ、押しつけるというよりかは、しがみつく、という表現が適切だろうか。


 井野さんの頼みを断ることはできず、僕は眼下にうずくまっている井野さんのサラサラな髪をゆっくりと左右に撫で始めた。すぐに井野さんは音にならない声を漏らし始めては、


「……や、やっぱり……八色さんに頭撫でられるの、好きみたいです……私……」


 恍惚な表情でそう呟いた。

 津久田さんも水上さんも同じようなことを言うし、やっぱりそうなのかな……。


「研修のときから、お客さんに怒られたり、ミスした後にこうやって頭撫でてくれることが多くて……それが……とても、温かくて……」

「そ、そっか……た、多分美穂にやっているのと同じ流れで、ついやっちゃうことが多かったんだと思うけど……」

「……そ、それでも……泣きそうになったときとか……辛くなったときは……凄く励まされましたし……だから……ここのバイトも続けられましたし……」


 あ、あれ……? なんか、僕の胸元が濡れている気がするんだけど、思い違いかな……。

 もしかしなくても……泣いている……?


「……八色さん、やっぱり、年末の帰省、私は連れていってもらえないんですよね……?」

 顔を埋めたまま、井野さんは小さく僕に尋ねる。


「……う、うん。それは、できない」

「じゃっ、じゃあっ……せっ、せめてっ……。く、クリスマスは……クリスマスは……一緒に、過ごしちゃ……駄目ですか……?」


「えっ……い、いやでも……まだシフトあるかどうかわからないし、クリスマスだって井野さんセンター直前なのは変わらないでしょ……?」


「シフトあるなら、それまでの時間でもいいですっ、それに、春や夏のときと違って、別にどこかに出かけたいなんて言いませんっ。風邪とかインフルエンザもらったら、気を使うのは八色さんですし……。た、ただ……一緒にいたいだけなんですっ……そ、それでも……駄目……ですか?」


 これも、僕が回答を保留し続けた功罪なのだろうか。早くどちらかを選ぶか、それともどっちも選ばないっていう選択をすれば、こんな困ったことにはならなかったんだろうか。……多分、そうなんだろうけど。


 ただ一緒にいたい、それを女の子に言ってもらえることがどんなに恵まれているかってことくらいは、僕だってわかる。


 今目の前で涙を浮かべながら、思いの丈をぶつけている彼女が、本気なこともわかっている。

 だから、ちゃんと答えないといけないんだけど……。


「…………」

 僕が答えに窮していると、やがて井野さんがゆっくり口を開いた。

「……水上さん、ですか?」


 見透かされている、というか、バレバレなんだろう。井野さんだって、水上さんの存在には気づいているはず。


「……そうですよね、水上さんだって、八色さんのこと好きですし、年齢も二十歳超えていて問題ないですし、性格だって普段は落ち着いていますし、……えっちなことも、躊躇ないですし……」


 ……ああ、キャンプのときの乱入事件のこと言っているのだろうか。あれもあったし、春には僕の貞操が失われる危機もあったし……。まあ、そう思っても無理はない。


「でっ、でもっ、八色さんが好きって気持ちは、私だって……」

 この子は、どこまでも気持ちに真っすぐで、曲げるなんてことを絶対にしない。それは、僕に対しても、BLに対しても。好きなことに、嘘はつかないんだ。


「……それは、伝わってる。わかってるよ。……ごめんね、僕がなかなか決めないせいで、もやもやさせちゃって……。……こ、こんなふうに、誰かに好きって言われること、いままでなかったし、誰かを好きになったこともなかったから……正直、わからないんだ。恥ずかしい話。この半年で、どういう気持ちなのかってことも、わかろうとは思ったけど……まだ、答えがわからなくて……」


 ……ただ。この間の津久田さんが言っていたみたいに、わかろうとするものではないのかもしれない。よくネタのように、「考えるな、感じろ」とか言うけど、恋愛感情に関して言えば、それが七割くらいは正解なのかもしれない。全部が全部、感覚だとは思わないけど。ダメ男とか、世にはまずい人間だっていっぱいいるわけだし。……水上さんも、うん。多分落ち着けば普通にいい子だから。うん。


「……もう、決める。春までって言ってたけど……。年末までには決めるから。……いや、決めるっていうか……僕は誰が好きなのかって、はっきりさせるから……だから、ごめん、もうちょっと……もうちょっとだけ……待ってくれないかな……」


 ……井野さんにだって試験がある。それまでに決めたほうが絶対いい。試験を言い訳に年末、実家に連れて行かないってことを言うなら……それまでにはっきりさせるのが、筋ってやつだ。でないと、ダブルスタンダードだ。


「……もう、決めていただけるんですね?」

「……う、うん。決める……決めるよ」


「わ、わかりました……。……とりあえず、クリスマスの予定だけ、空けておきますね……」

「お、オッケー……」


 そこまで話すと、井野さんはようやく固く回していた両腕を僕の背中から離して、十分以上続いていた抱きつきを終わらせた。正直、離れた後も、井野さんの柔らかい身体の感触があちこちに残っていて、変な感覚だ。


「……す、すみません。長々とこんなことして……」

「い、いやいいよ……誕生日くらい、これくらいのわがままは……で、でも……もう結構時間遅いし、帰ろうか……」

 コートを羽織って、カバンを持ってスタッフルームを後にしかけたとき、


「あっ、あのっ……」

 井野さんは再び、僕を呼び止めた。


「……で、できれば考えたくないですけど……例え答えがどっちだとしても……私は待ってますから……な、なので、そんな、気を使ったりなんて、全然、しなくていいんでっ」

「……うん、わかった」


 ……ほんと、そういうところは強いよな……井野さんは。

「……って、ひゃっ、私っ、八色さんのシャツびしょ濡れに……す、すみませんっ、わ、わがまま聞いてもらった上にこんなっ」


 なんて思っていると、世界から見た日本くらいの大きさの地図が僕のシャツには広がっていて、それを見つけた井野さんがあわあわと慌てだす。

「だ、大丈夫だよ。どうせあと家に帰るだけだし、コートのボタン閉めれば関係ないし」


 そう言い、ポチポチとボタンを閉めて濡れたシャツを隠す。


「よし、帰ろうか?」

「ひゃ、ひゃい……」


 その後、遅くなったということで高円寺までは同じ電車に乗ってあげて、そこで井野さんとは別れた。ほんとは家まで送ってあげたほうが安全なんだろうけど、井野さんが固辞したっていうのと、さすがにそれをすると僕の終電が怪しくなる、ということで、そのまま僕も帰ることにした。


 こうして、井野さんの誕生日イベントは終わった。終わったんだけど。

 僕は、ため息をつきながらスマホのロック画面に浮かぶ一通のメッセージを見つめた。


水上 愛唯:今日、井野さんの誕生日でしたみたいですけど

水上 愛唯:どうでした?


 ……根拠はないけど、何があったか知った上で、水上さんはラインをしている気がする。

 誤魔化すと、尚更燃えそうな……そんな予感がした。

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