第184話 寂しくなった井野さん
月末締めも何事もなく終わり、スタッフルームにふたりして引き上げる。例によって井野さんが先に更衣室に入って着替えをしている間に、僕は従業員専用の冷蔵庫の扉を開けて、ある紙箱をひとつ取り出していた。
中身は……まあ、ケーキなんですが。
今日お店に出勤する前に新宿の洋菓子屋さんによってケーキを購入してきていた。浦佐はマフラーだし、それなら僕は安直にケーキでもいいかなって。
「八色さん、着替え終わりました……」
学校の制服に秋物のコートを腕に持った井野さんは、そう言って更衣室から出てきた。けど、すぐに僕がテーブルに置いてある紙の箱に気づいたみたいで、
「あ、あの……八色さん、それは……」
おずおずと指をさしながら聞いてくる。
「……一応、僕も出勤するわけだし、何もないのはちょっとなって思って……浦佐はマフラーだったし、なら僕はケーキをと……」
「へ? ……なんで、浦佐さんのプレゼントが、マフラーって……」
あ。……ま、まあもういいか。時効だよね。
「いや……浦佐に井野さんへの誕生日プレゼント何がいいと思うって相談されて、一緒に買いに行ったんだよね……それで……」
井野さんはすると嬉しいのか悲しいのかよく判別がつかない複雑な表情を浮かべた後、
「じゃ、じゃあ、このマフラー、八色さんも選んでくれたんですか……?」
と、左手に提げているマフラーの入った紙袋をギュッと大事そうに掴み直した。
「あ、ああ……僕は助言をしただけで、選んだのは浦佐本人だよ。それだけだと悪いかなって……今日買ってきたんだけど……はい」
僕はケーキの入った箱を井野さんに手渡す。
「あっ、ありがとうございます……あ、あの、今開けてもいいですかっ?」
「え、ま、まあ……別にいいけど……」
井野さんは受け取った箱を再びテーブルに置いては、ガサゴソと音を立てて箱を解体する。すぐに中身は露わになって、多種多様なフルーツが乗ったタルトが一個、井野さんの絵の前に現れた。
「わぁ……私が好きなフルーツタルト……私、八色さんに言ってましたっけ……?」
「井野さんのご両親にラインして聞きました……。好きなケーキって何ですかって……」
「そっ、そうなんですね……わざわざそこまで……。い、今、食べても大丈夫ですか?」
「井野さんがいいなら、いいと思うよ……。じゃあ、僕はその間に着替えてくるね……」
「はっ、はいっ」
テーブルに座った井野さんは、いつものグ腐腐腐な笑みとは違って、純粋に好物を目の前にした子供みたいな笑顔を浮かべ、僕が買ったケーキをまじまじと見つめていた。
そんな光景を微笑ましく思いながら、一度更衣室に入り、私服に着替える。それからすぐに僕は更衣室から出るけど、まだ井野さんは買い与えられたばかりのおもちゃみたいにケーキを眺めている。
「……た、食べないの?」
「ひゃぃっ。……え、えっと……や、八色さんが買ってきてくれたと思うと、ちょっともったいなくて……」
「いや、僕が作ったわけじゃないからね……それに、生ものだから、早めに食べてもらわないと……」
それくらいで価値が生まれてしまうならこの世のなか容易にインフレが発生するよ。……うん? 一部界隈ではそうか、だから転売という行為が発生するのか。なるほど……。
「そ、そうですよね、じゃ、じゃあ、い、いただきますっ」
井野さんは、備え付けのプラスチックでできたフォークでケーキを一口食べる。もぐもぐとしばらくしてから、ほんのりと嬉しそうに左頬を押さえた。
「お、おいひいでふ……」
「な、ならよかったよ……」
「ケーキなんて誕生日とクリスマスくらいでしか食べないので、フルーツタルト食べるのも久し振りですし……」
……これは僕の偏見かもしれないけど、女子高生ってスイーツバイキングとか行くものじゃないの? 井野さんも友達いないって自称しているけど、浦佐……。あいつは、スイーツバイキングというよりかは、焼肉食べ放題か。……なんだろう、それだけで男子高校生感が凄く漂う……。
井野さんはゆっくりと味わうように、されどフォークを持つ手は止めることなく、ケーキを食べ進めた。が、半分くらい食べたときだった。
「……や、八色さんも、ひとくち食べます?」
井野さんの隣の席に座って様子を見守っていた僕に、彼女はそう言いだした。
「え、え?」
「八色さんがお金出されたので、ひとくちくらい食べてもバチは当たらないんじゃないかなって……」
そして、あろうことか井野さんはフォークにケーキをちょこんと刺して、僕の口元へと持っていきはじめた。
「ど、どうぞ」
……落ち着こうか。状況を冷静に整理しよう。第一に、これは俗に言う「あーん」であること、第二に同じフォークを使っているから間接キスであることが挙げられる。
間接キスだったら全然なんとも思わないけど、さすがに「あーん」は恥ずかしい。
「……じ、自分で食べられるから大丈夫だよ……?」
「あっ、でっ、でもすみません、ケーキがフォークから落ちそうで……」
断ろうとしたけど、わざとなのか偶然なのか、刺さりが甘かったケーキは順調にフォークから落下しかけており、これは仕方ないと、井野さんの持つケーキに僕の口を持っていった。
「……ど、どうですか……? 八色さん……」
なんか今さっきよりも顔が火照っている気がする井野さんはボソッと呟いた。
「いや、うん……美味しいよ……」
美味しいよ、フルーツの爽やかな風味とタルトの生地の甘さがうまいこと口のなかで混ざり合ってすっごい美味しいんだけど。……あーんのおかげで味に集中できない……。
「も、もうひとくち、食べますか……?」
「……いや、あとは井野さんが全部食べていいよ。誕生日だし……」
それに、これ以上は僕のメンタルがもたない……。
「わ、わかりました……」
やっぱり、無事には今日は終わらないよね。……でも、キスをせがまれたり、……手や口ですることを提案されたときに比べれば幾分穏やか……なのかな……。どれも全部意味不明だけどさ言っていて。
十分くらいして、井野さんはケーキを食べ終わった。ゴミも片づけて、じゃあもう帰ろう、と僕が席を立ったとき。
「……あっ、あのっ……八色さん……。ひ、ひとつだけ……お、お願いしたいことがあるんですけど……い、いいですか?」
何かを決意した顔つきの井野さんが、僕にペコリと頭を下げた。
「い、いいけど……何かな」
僕が答えると、ゆっくりとした足取りで井野さんは僕に近づいてきて、
「っっっ? いっ、井野さんっ?」
……いきなり正面から、僕に抱きついてきた。反射で距離を取ろうとするけど、背中にがっちり両手が回されていてホールドされているので、離れることもできない。
「すっ、すみません……で、でも……た、退職近いって聞いて、そういえばそうだなって思って……ちょっと、さ、寂しくなって……」
あ、ああ……なるほど……。
「……あ、頭……撫でてもらっても、いいですか……?」
至近距離の上目遣い、さらにちょっと潤んだ目。……断ることなんて、できなかった。
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