第179話 時間の猶予と気持ちの猶予
心に残ったしこりは簡単に消えるはずはなく、何かつっかえたような気分でその日の仕事を終えた。ただ、一個明確に気になったのは、閉店作業の際のレジ閉め・回収のとき。
「……八色さん、二五一円マイナスが出ていて……」
「え? ほんとに?」
ここ最近ほとんどでていなかった現金差異かと一瞬身構えた。しかも微妙に中途半端な額でマイナスか……。
「……二五一円? ちょっと見せて」
しかし、その額の販売も買取もそうそう発生しない。返品事故の線は薄そう、ということでとりあえず僕がもう一度数え直すダブルチェックをすることに。
「んー? 八色―? どしたー? 差異でも出たか―?」
売り場の掃除と見回りに出ていた小千谷さんがカウンターに戻ってきた。
「……ダブチェ中でーす」
それで百円玉棒金が一本、五円玉棒金……五円玉棒金?
「あ」
「なんかわかったか?」
棒金は基本的に一本五十枚の硬貨が入っている。百円棒金なら五千円、十円棒金なら五百円、という計算になる。まあ、よく使う棒金はこの二種類。お釣りでよく消費するからね。
ただ、今日に関しては五円の棒金があって……それは二五〇円だ。
あと、レジの引き出しの見にくい位置に、手持ちと呼ばれる一円玉が一枚忍び込まれている。……誰だよ、こんなところにしまった奴。
「水上さん、五円棒金と手持ちの一円玉数え忘れている」
手持ちとは、釣銭機を通らない硬貨のことを指す。たまに、自販機で認識してくれない十円玉とかあって、それのこと。お金はお金なので、別の引き出しにしまっておくことが多い。
「……あっ……す、すみません、普段五円の棒金なんてみないので、うっかり……」
「まあね、五円なんてそうそう棒金にしないといけないほどたまることなんてないしね。あとこの一円の手持ちはしまう場所が悪い」
「なら、今日も元気に差異なしだな。めでたしめでたしと、さっ。帰ろうぜー」
レジの画面を覗きこんだ小千谷さんは安心したように軽い調子で言い、ひとりで先にスタッフルームへと戻っていった。
「……大丈夫? 普段こんなわかりやすいチェックミスしないけど」
どっちかと言うとこういうミスは浦佐の専売特許みたいなところがある。
「……いえ、大丈夫ですよ?」
マイバックのようなお店のトートバックにレジのお金をしまいながら、水上さんは笑った。ほんの僅かに。
「……なら、いいけど」
一応勤務中だし、長々と引き留めて残業させる趣味もない。そこで話は切り上げて、小千谷さんの後を追う形で、僕らもスタッフルームに引き上げていった。けど。
……やっぱり、どこかおかしいんじゃないだろうか。
技術的なミスはたまにしても、こんな初歩的なミスは滅多にしないタイプのはずなんだ、水上さんは。
だとしても……。本人が大丈夫と言っているのに踏み込んでいいものだろうか。
「……だからって……まだ僕だってわかってないんだよ……」
自分のなかの気持ちを整理するために、ぼそっと口にしたひとりごとは、隣を歩く水上さんの耳には入ったけど、ちゃんと聞こえてはいないみたいで、ちょっとだけ不思議そうに首を捻っては何も言わずに淡々と並んで進んでいた。
「にしても、水上ちゃんがあんなイージーミスするなんて珍しかったな。何? なんか悩みでもあんの? 単位がやばいとか」
着替えも終えて、お店を出てエレベーターホールでエレベーターを待つ。その間、小千谷さんは気さくに水上さんに質問する。
……こういう明け透けなく大事なことをサラッと聞けるのは尊敬しますね。
「単位は平気ですよ。大丈夫です、自分でどうにかできることなので」
この言いかたもどこか引っかかる。
「まあまあ。潰れそうになったらいつでも隣にいる八色お母さんを頼るといいさ。きっと、いい解決方法を示してくれるさ。あ、エレベーター来た来た」
……その原因、僕自身かもしれないのがちょっと複雑なんですが。
エレベーターを降りて、通用口を出ると、すぐにまず小千谷さんと別れることになる。のだけれど、
「そんじゃ、八色、水上ちゃん、お疲れー……え?」
「小千谷様、お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
たまにゲリラ的に待ち構えている津久田さんの代わり……に、津久田家の使用人三名が小千谷さんに近づいては止めていた車に連れ込み始めた。
「えっ、ちょっ、佳織仕事早くないっ? 今日なの? 今日だったの? いやあああああああああ!」
どうぞこちらへって言う割にはほぼ強制連行なんだよなあ……。と、遠い目を浮かべて発進した黒塗りの高級車を見送る。
さっきまで悩み気味な心境だったのに、今の一連の流れのせいで、一瞬で日常に戻された。……いや、成人男性が悲鳴をあげながら車に放り込められるのが日常っていうのもどうかしていると思うけど。
「……小千谷さん、今日は鞭でしつけられる夜になりそうだね……」
「……そうみたいですね。……そういえば、八色さんってSかMかで言えばどっちなんですか?」
階段を下って地下街へと潜る途中、そんなことを水上さんが尋ねる。
「……え?」
「いえ、ただの個人的な興味です」
……個人的な興味がそのまま僕の寿命に絡むから困るんだけど……。
「……わ、わからないけど……とりあえずSってことにしておく……よ」
そのほうがまだマシそうっていう考えは言わないでおく。
「なるほど……ひとまず覚えておきますね……」
ほら、絶対何かに活かす気だよこれ。
JRの改札内に入って、中央線快速のホーム下にたどり着く。ここで僕と水上さんも別れる。
「……それじゃ、今日もお疲れ様」
「はい。お疲れ様でした」
そうして、僕は階段を疲れた足取りで上り始め、真ん中を通り過ぎたあたりでふと後ろを振り返った。
「…………」
いつもだったら水上さんは小さく手を振っているのだけど、今日に関してはただただ僕の後ろ姿を見つめているだけだった。
別に、たまたまかもしれない。
でも、今まで記憶にある限り、帰りのこの階段でのやりとりでは必ずと言っていいほど手を振っていた水上さんが振っていない。
「……大事なことほど、すぐに決めないですよね、ってか」
よく言えば保留、悪く言えば放置し続けて半年。
僕が提示した春の期限まではまだ半年も残っている。けど。
「……待たされるほうは堪ったものでもない、か」
井野さんも暴発するようになってきたし……水上さんもなんか変だし……。
思っているほど、精神的な猶予は残されていないんだって、考えさせられる。
……決めないと、いけないか。
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