第163話 ヒモになりたくない八色くん

 それから数週間が経過し、九月も半分を折り返した。夏の陽射しの強さも徐々にその力を弱めていって、ようやく待ち焦がれた涼しい秋の訪れを感じ始める頃になった。ほら、僕の出勤の時間ってちょうど夕方くらいだから、夏だと明るいけど秋になると薄暗くなる、みたいな明確な差はあるんだよね。


 ……件のカードゲームは高校生組に痛い思いをさせられたので、その次の日に用事がなくても返しに行った。なんだったらラーメンすら食べないのにラーメン屋に行った。……いるんだろうか。ラーメン屋にラーメンを食べるためでなく行く人って……。


 そんなことはさて置いて、たった今起きていることを説明したいと思う。

 いや、なんの変哲もないただの平日の夕礼前のことなんだけど……。


「へ……? あ、あれって……よ、よくある社交辞令みたいなもの……じゃなかったんですか……?」

 スタッフルームの入口付近、井野さんはフリーズしたように立ったまま固まっている。何が起きているかというと……、


「……? ふたりが嫌でしたら、津久田さんもお誘いしましょうか? 多分誘えば来ていただけると思うんですが……」

 水上さんが、この間井野さんに電話で言っていた「いつか一緒にお買い物に行きましょう」の日程を調整しようとしていた。


 あれ、本気でそのつもりだったんだ……。ああ、でも、自分で「嘘つく人は嫌い」って言うくらいだから、そうそう嘘はつかないか……。なら納得。

 は、いいんだけど、井野さんは井野さんでまったく予想していなかったみたいで、完全にあわあわとあちらこちらに視線を回しててんてこ舞いになっている。


「で、でもでも、わ、私と買い物なんて、そ、そんな恐れ多いというか……」

 ……一緒に映画を見に行く仲の浦佐はいいのか浦佐は。まあ、浦佐のことだから大して気にもしないだろうけど。


「……う、ぅぅ……」

 井野さんがオーバーヒートしそうになっている。……浦佐はこういうこと提案しなさそうだもんなあ。普通に買い物行こうなんて。誘ったとしてもどうせゲームを買いに行くくらいだろうし。


 というか、水上さんもそんなに井野さんと出かけたかったんだ……。僕のなかでは勝手に冷戦状態みたいな認識でいたんだけど、一応仲良くはなりたい、という意思はあるってことなのかな……?


 それとも、これも方向転換の一環? 確かに、あーちゃんだったら友達多そうだし、井野さんみたいな子も拾い上げそうだけど。


 井野さんも断るのは申し訳ない、みたいな感情があるみたいで、高校の制服のままおどおどと立ち止まって色々と考えごとをしている。

「……せ、せっかくだし、行っちゃえば? べ、別にカツアゲされるわけでもないし……勉強したいならそれでもだと思うけど……」


 ですよね? 水上さん。当日カツアゲとかしないですよね? ひと気のない裏路地に連れ込んで金寄越せとかそんな陰湿なことはしないですよね? 

 ……今の水上さんならあり得ないと思うけど、完全に病んだ水上さんならやりかねない……気もしなくもない。


「そんな、カツアゲなんて……高校生じゃないですし、バイトしているのにそんなことしませんよ……八色さん。……私のことどういう人だと思っているんですか?」


 色々重たい人(本音)。

「……ははは、冗談だよ冗談。物の例え」


 とは言えないのでとりあえず建前を並べておく。……ん? 高校生でバイトしてなかったらやる……のか? っていうかそういう地元だったのか……?

 ま、まあ僕が出た中学校も傘と自転車は盗んでも犯罪じゃない(犯罪です)みたいな風潮があるいわゆる荒れた学校だったし……。今はどうか知らないけど。


「うーん、でも、八色さんにカツアゲされたら素直にお金出しちゃうかもしれませんね」

「ひっ、ひぅ。や、八色さん、か、カツアゲとか……しちゃうんですか?」

「なんでそんな話になった? ねえ、おかしくない? おかしいよね? 僕がそんなことするような人に見える?」


 あと素直にものを信じすぎ井野さん。純粋なのに思考は不純ってどんな矛盾なんだ? ……別に意図して韻を踏んだわけではない。偶然です。はい。


「……でも、このご時世、何があるかわからないですし……。もしかしたら五年後、八色さんが『ん』って言ってパチンコ代をせびるような人になっている恐れはないとは言い切れませんよ?」

「その微妙にリアリティある未来予想図描くのやめてもらっていいですか? はい、気をつけますよ仕事クビにならないように、ご忠告感謝します」


 ……むしろその予想図は小千谷さんと津久田さんの関係に言えるのでは、とかふと思えてきた……。ああ、でもあの人の場合パチンコはやらないから、くしゃくしゃの千円札握って宝くじのチャンスセンターに駆け込んでそう。


「……まあ、八色さんが無職になっても私が衣食住サポートするので心配はないですよ?」

 ……韻が移ったか? それとも僕が八色じゃなくなればいいのかな? いや、そういう意味ではなく。


「わっ、わひゃしだって、や、八色さんがニートでもじぇんじぇん大丈夫です……!」

 ……いつからこの空間は僕の専業主夫へのプレゼン大会に切り替わった。お買い物の話はどこにいった。いや、いい。今回に関してはカツアゲという話題を提供した僕に責任があるから。……うん、悪いのは僕です……。


「あらあ、太地クン、将来ヒモになるの? 羨ましいわねえ」

 ……そして火に油を注ぐタイミングで宮内さんが入ってきた。

 ほんと、いつもいつも惚れ惚れするくらいいいときに来ますね。


「……別に僕は誰かに無条件に養われる趣味はないです」

「ヒモは気楽でいいわよお? 遊んで暮らせるから人生ハッピー。パートナーの手綱さえしっかり握っていればどうにかなるんだからあ」


 ……嫌に実感ありますが、経験談とか、ではない?

「ま、そのうち愛想尽かされて捨てられるのがオチだけどね」


 ……間違いない、これは捨てた側の感想だ。この人のプライベートは謎しかない……。何でもいいんですけど……。

「というか、井野さんまだ制服着ているの? もう夕礼始まる時間よ?」


「ひゃっ、ひゃいっ! しゅ、しゅみましぇん!」

 さっきから噛み噛みだし、大丈夫か井野さん?


 慌てて更衣室に駆け込むも、ドタバタと何かが当たって倒れる音や、井野さんの悲鳴が聞こえたり。

 ……大丈夫ではなさそうだな。


「あ、別に八色さんがヒモでも私は本当に全然気にしないので……安心してくださいね?」

 隣に座っていた水上さんは、顔をこちらに近寄せてコソコソと僕に囁く。

「何を安心していいのか僕はさっぱりわからないです……」


 ヒモにはなりたくないから、ちゃんとお金稼がないと……。


 あと、今後不用意に危険な単語を口にするのも控えよう。……でないと僕がいじられる流れになる。

 今日は井野さんと水上さん、という組み合わせだったからこれくらいの被害で済んだけど、浦佐・小千谷さんの組み合わせだったら水を得た魚のように活き活きとして会話のマシンガンを連射するだろう。


 ……なんでただのバイトで口にする言葉にまで注意を払わないといけないんだ。

 いや、仕方ないんだけどさ……。


 そんな誓いを立てた、夕礼前だった。


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