第155話 蜂蜜とは別の甘さ

 結論から先に言おう。とりあえず僕は無事だった。どうやって僕のタンスの中身を把握したのかは知らないけどスムーズに替えのシャツを左手に、ほどよい熱さのお湯を絞ったタオルを右手にやって来ては、僕に体を起こすよう促した。


 何かされるという恐怖よりもこの気持ち悪いパジャマを早く脱いでしまいたい、そっちの感情が勝ったので、大人しく僕は指示に従う。

「……やっぱりすごい量の汗かいていましたね……。シーツも替えたほうがよさそうです」

「……シーツの場所わかる?」


「……洗濯機の上の戸棚ですよね? ……知ってますよ?」

「なら……いいです……」

 ここに住んでいるんですか? シーツの替えの位置なんて何回か遊びに行ったくらいじゃ知るわけないですよね? え? 実は僕が寝ている間に家に侵入しているとか、そういうオチはないですよね?


「とりあえず、先に体拭いちゃいましょう」

 シャツを脱いだ僕に、ゆっくりとタオルを持っていき、汗ばんだ肌にあつーいタオルを擦っていく。


「ほんとはシャワーとか浴びれたらいいんでしょうけど……」

「いえ……手の届かない場所までありがとうございます」

 背中の真ん中とか。……ああ、なんかそこいい……。


「なんか……ごめんね、せっかくのお休みなのにこんなことさせて……」

 ごしごしと上半身を拭かれながら、僕は水上さんにそう謝る。

「不可抗力ですし、仕方ないですよ……。帰りのはあれだとしても、仕事中のに関してはどうしようもないですし……」

「この埋め合わせはそのうちするので……」


 デートをふいにしたあげく、看病までさせているし。……これお金請求されても文句言えないのでは……?

「……ああ、もう埋め合わせは貰っているので大丈夫ですよ?」


 すると、ニコリと微笑んだ水上さんが、意味ありげにそう言って替えのシーツを取りに向かいにいった。

 ……え? もう貰ってる? そんなお代はあなたとの時間ですよ? とか、笑顔がお代です、とかそんなこと言うパターンですか? 嫌だ水上さんイケメン。


 ……なんてわけではないんだろうな……。うん、知ってます。期待するだけ無駄ってことはこの半年で充分学んだのでやめておきます。


 文字通りに綺麗になった体にひとまず安堵を覚え、さっき水上さんが持ってきた着替えに袖を通す。……ズボンは、いいか。っていうかこの場で着替えると本当に襲われそう。寧ろ僕がその気になったって好意的な解釈をされたらたまったものではないのでほんとにやめておこう。


「八色さん、シーツも替えちゃうので一瞬だけ起きてもらっていいですか……?」

 少しして、真っ白に洗濯された柔軟剤の香りが優しいシーツを両手に抱えた水上さんが戻る。


 はは……なんかまるでこれじゃ看護師さんじゃないか。これで水上さんが看護系の学生だったら完璧にそうなんだけど、残念彼女は文系だからそんなことはない。

 まあ、そんなことはさて置いて。


 おかゆ、着替え、シーツの交換ともはや報酬を払ってもいいレベルの看病をしてもらったあと、水上さんは件のレジ袋からなんと、

「……あ、そうだ。あとリンゴも買ってきたので剥きましょうか?」


 真っ赤に熟れた美味しそうな果物を取り出してはそう提案する。

 ……どこまで準備がいいんですか? この子は。

「……あ、ありがたくいただきます」


 そうして、部屋のテーブルの上に、今日の朝刊の折り込みチラシを一枚置いて、水上さんはリンゴの皮を剥きはじめた。

 もともと料理はできる子だから、慣れた手つきで無駄なく最低限の量だけを剥く。


 近所にあるスーパーのチラシの上には綺麗に皮が積もっていき、小皿には病人にも食べやすい大きさに切られた薄黄色の果実が並んでいく。頂点のやや凹んだ部分は少しだけ色が透明に近くなっていて、よく蜜が溜まっているのを窺わせる。


 これまた用意良くテーブルに準備しておいた爪楊枝に切ったリンゴを刺して、

「……八色さん、口開けてください」

「……え? いや、自分で──」


 抵抗する間もなく、喋るために開けた口に甘い甘いそれが放り込まれる。

「はふっ……ふっ……」

「どうですか? 美味しいですか?」


 ニコニコと穏やかに笑いつつ、水上さんは僕の顔を見てそう尋ねる。

 シャキシャキとした咀嚼音を立て、喉を鳴らして飲み込んだのち、

「……う、うん……」

 と僕はぎこちなく返す。


「ならよかったです」

「……これでも十分私は楽しいですので。ほんとに気になさらないでいいですよ……? お台場はまた今度行けばいいだけですし」

「……そ、そう言っていただけると助かります……」

「それに……こんな感じに弱っている八色さんを見るのも新鮮ですし……」

 ……新鮮で何よりです。


「そういえば、……なんか今みたいな明るい色合いの服も着るんだね。初めて見たから僕としても新鮮というか……」

「……こ、高校のときまではよく着ていたんです。大学入ってからはあまり雰囲気と馴染まないかなって思って……」

 まあ、確かにこの服ならはっちゃけるテンション高めの「あーちゃん」が着そうな気もする。


「……いいんじゃない? それもそれで似合っていると思うけど」

 まあ、いつもの微笑よりかは、子供っぽく弾けた笑みのほうがその服だと映えそうにも思えるけどね。

「そ、そうですか……?」


 考えが伝わったように、今度は口角だけではなく、目や表情全体にまで笑みが広がり、幼い印象が珍しく見える。

 ……こ、これがあーちゃんの欠片だったりするのか……?


 一応僕が年上、ということもあって敬語っていうフィルターはかかっているけど、この感じで同い年の人と関わったら、ああなるほどなあともなる。

 おかげでドキッとしてしまった。


 ポジティブな意味で。


「……そ、それで……き、今日これからどうするの?」

 しどろもどろになりつつも、話題を変えて自分から振った服の話からなんとか逃げ出す。


「そうですね……夜になったら帰ります。晩ご飯の用意もしないといけませんし」

 完全に発言が夫婦のそれ。

「そ、そこまでしてもらって……なんかほんとにありがとうございます……」

 まだ実際熱っぽいしかなり助かる。うん。


「……よし。リンゴも剥き終わりました。ゆっくりでいいので、食べられるぶんだけ食べてくださいね?」

 ……爪楊枝に刺されたリンゴを頬張るたび、何か蜂蜜とは違う甘さを覚えたのは、この路線変更のせいだろうか。


 ……井野さんのときといい、イメチェン事案に弱くないですかねえ僕……。

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