第153話 ナニサレチャウノ

 水上さんの後に続いて僕も私服に着替えを済ませて、お店を後にした。通用口を出て、新宿駅の南口方面に繋がる道とそのまま西口の地下通路に繋がる道で分岐するのだけど、その分岐でチラッと眺めただけでわかるくらい酷い大雨は変わらないままだった。


「……ここまで綺麗に天気予報が外れること、あるんだね」

「ま、まあ……予報は予報ですから……」

 小豆の山を床に落としたような音を段々と遠くさせ、僕らはひとまず雨に当たらない地下街へと歩いていく。


 右に井野さん、左に水上さん。お互い少しずれれば手と手が触れ合うような距離感を保ったまま。

 雨の日特有の少し水っぽい空気と人の流れと、傘の先端や靴底から零れた雨粒の集まりで滑りやすい道を進み、京王線の改札前を通過し、コンコースに出る。


「で、では私はここで……お疲れ様でした」

「うん、お疲れ様。気をつけて帰ってねー」

 井野さんは一番手前のホームで僕らと別れ、とてとてと階段を駆け上がっていく。残された僕と水上さんも、また並んで歩きだす。


「……八色さん、明日は十時に新橋駅でお願いしますね」

「え? 新橋? 現地集合じゃなくて?」

「……なんとなく、ゆりかもめを一緒に乗ってみたいなって思いまして……」

「ああ……ゆりかもめね……」


 新橋からお台場、豊洲を繋ぐモノレールだ。東京湾を突き抜けるということもあって、景色はいい電車だと思う。

 それに、地方の住民からすると、モノレールってだけで珍しいみたいなところはあるから。少なからず、僕の地元にはないし。電車すら怪しいからな……。


「水上さんがそれがいいっていうなら、新橋でもいいけど……」

 待ち合わせ場所は無難にSL広場?


 ……サラリーマンの街、新橋に土曜とは言え佇む水上さん……。なんか、容易に目立ってしまう未来が想像できるんですが……。

 いや、本人がいいって言っているんだからそれでいいや。待ち合わせ場所を僕の家(笑)とかにされるよりはよっぽどましだ。


「それじゃ……また明日ね、水上さん」

 中央線快速のホーム下に入り、例によって僕も別れの挨拶を言って階段を上がろうとする。


「……風邪、引かないでくださいね? フリとかではなく……今日八色さん大分雨に濡れていらしたので……」

「……ぜ、善処します……」

 そうなったら本当に待ち合わせ場所僕の家になるので這ってでも新橋駅行きます……。


「それじゃ、お疲れ様」

「はい、お疲れ様でした」

 変わらずヒラヒラと微かに手を振る水上さん。反対の左手は優雅に後ろにそっと回しているのが落ち着いていてらしいと言えばらしい。

 ……さ、風邪引いたら洒落にならないから早く帰って寝よう。


 って、思っていたけどさ。

 翌朝。目覚めたのは午前九時。この時点で既に黄色信号が灯っているかもしれないけどもうちょっと待って欲しい。


 まず覚えたのは限りない倦怠感。次いでぼやけた視界。コンタクトを外しているからとかそういうのではなく。

 これで僕は「あ、ヤバイ」と思い始める訳で。


 とりあえず水を飲んでから熱を測ろうと思い台所までフラフラで向かってコップに水を注いで口に含むけど、なんかすぐに飲んだ水が飛んでいる感覚がしてしまう。

 そして最後の確認とばかりに脇に体温計を挟んで待つこと一分。


 電子音とともに映し出された表示は「37.9」の文字。

「……微熱? 高熱?」

 ……どっちでもいいや。とにかく言えることは。


 僕は本当に風邪を引いてしまったということだろう。


 いやさ。確かに武蔵境駅着いてから傘も雨合羽も買うお金がなかったからバケツの水をぶちまけたような大雨を走って家に帰ったけどさ。

 その後ちゃんとお風呂も着替えもしたじゃないですか……。それで風邪引くとか僕の身体やわすぎませんかね……?


 そういう問題ではない、ということなのかな……?


 過ぎたことをああだこうだ言っても仕方はない。

 でもどうしよう。そろそろ水上さんも家を出る支度を終わらせているのではないだろうか。僕の家より待ち合わせ場所は近いとは言え、一時間前で何も終わってないってことはあり得ないだろう。


 ……せめて、家を出る前に電話を入れたほうが……というか入れなければ……。

 両足だけでは体を支えることができずに、壁に手をかけてなんとかベッドに戻って、スマホを手にして水上さんに電話をかける。数コールもしないうちに、


「はい、水上です。どうかされました? 八色さん」

 そんな綺麗な透き通ったソプラノの声が聞こえてくる。

「私、もうこれから家を出て駅に向かうところなんですけど……」


 危ないのか危なくないのかもはや訳が分からないけど、とりあえず報告しないといけないことは報告しないといけない。

「……ご、ごめん……それなんだけど……ごほっ」


 そしてトドメとばかりに語尾に咳まで出てしまった。かなり痰がからんだやつで。

「……もしかして、本当に風邪、引きましたか……?」

 電話口の向こう側で足早に歩く音がしたのち、パソコンを起動する音が耳に入る。


 ……パソコン起動して何を確認するんですか水上さん。いや、聞きません。

「……う、うん……申し訳ないです……」


「わかりました。予定を変えましょう。八色さんはそのまま家にいてください。すぐに向かいますから」

 呆気なく電話は切れてしまい、機械的な切断音がしばらく鳴り続けていた。


 ……すぐに向かいますから。すぐに向かいますから。すぐに向かいますから。

 すぐに向かいますから?


「……僕、ナニサレチャウノ?」

 ベッドの上でダラダラと汗をかきだしたのは、緊張からか、熱のせいか、はたまた両方なのか。

 ……熱のせいにしておこう。うん。そうしよう。


 もう鍵かけようが何しようがお構いなしに水上さんは僕の家のセキュリティを突破してくるから、抵抗するだけ無駄だ。彼女が来ると言ったら来るし、来ると言っていなくても来るのだから仕方ない。


 大人しくベッドで寝て待っています……。っていうか、本気で動けそうにないからどうしようもない……。


 こんなにガチな風邪を引いたのって……いつぶりだろうか……?

 中学生とか、そこらへんかな……?


 今後いついかなるときもカバンのなかに折り畳み傘を常備することを固く誓って、僕は途切れそうな意識を任せるがままにベッドの底へと落としていった。

 ……蓄積疲労も絡んでいるのかな……。日頃の突っ込みの。


 だとするなら僕は悪くないよね……。そうだよね……。

 はあ……。

 なんて日だ……まったく。

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