第152話 なけなしの五百円

 言われた通りスタッフルームに戻ると、休憩中の井野さん、水上さんのふたりが目を丸くさせて僕の姿を見ていた。カタン、とペットボトルとゼリー飲料がテーブルに落ちる音が同時に響く。


「どっ、どうされたんですか八色さん、そ、そんなびしょ濡れになって」

「……ズボンまで水浸しじゃないですか……」

「……まあ、色々あってね。上だけ替えることにしたんだ。えっと……確か使い古しの制服は……っと」


 僕はロッカーの上に埃をかぶったまま置かれているカラーボックスをゴソゴソとまさぐり、同じLサイズの制服を持ち出す。

 よし、これでいいか。

 更衣室に入って、たぷんたぷんに水を吸ったポロシャツを脱ぐ。


「うわ……なかのTシャツまで水行ってるよ……」

 絞ったら大きい音を立てて水たまりを作りそうだ。ここでは絞らないけど。

 ……お店のレジ袋貰わないとバックのなかも水で濡れそうだな。備品だからほんとは駄目なんだけど、背に腹は代えられない。今度買い物しに行くからそれで許して……。


「ズボン……どうしようかな……」

 着替えはないし、買いに行くのも厳しい。かといってこのまま売り場に出ると足跡を残してしまう。


 うーん……まあどうせこれから休憩だし、それ終わったらあの大口の買取の査定で動き回ることはしないだろうから最悪これでもいいか。

「……うん、それでいこう」


 どうしようもないので開き直ることにした僕は、たぷたぷのシャツを持って更衣室を出る。

「八色さん、これ……焼け石に水かもしれませんが……どうぞ」


 すぐ近くで待っていた水上さんが、僕に水色のハンカチを渡してくる。バックヤードでは井野さんが慌ただしく動き回っていて、

「うう、何も使えそうなものないです……さ、さすがに未開封の売り物のドライヤー開けたら怒られますよね?」

「それは小千谷さんに怒られると思いますよ。未開封で高く買取をしているはずなので、そういうものは」

 ……色々思うところはあるけど、とりあえず。


「う、うん。落ち着いたからもう大丈夫だよ」

「ひゃっ、ひゃぃ……そ、そうなんですね、ならよかったです……」

 ちょっと額に汗を浮かべた井野さんが僕らのもとに戻ってきた。ただ、すぐに、


「あっ、もっ、もう休憩終わりの時間です。早く戻らないと」

 バタバタと急ぎ気味の行動が再開される。ペットボトルのお茶を一口含み、外していた名札を付け直し、売り場へと風のように向かっていった。


 水上さんはそんな井野さんの姿を少しだけ可笑しそうに見てから、

「……そのハンカチ、お貸しするので、好きに使ってください。では、私も休憩戻るので」


 ゆったりとした挙動でテーブルに置いてあった名札とゼリーのゴミを持って、井野さんの後を追うように売り場へと歩き出していった。

「う、うん、お疲れ様―」

 ……休憩入るか。僕も。


 ……まあ、開き直っただけだったから解決にはなっていないんだよね。うん。その後の時間が働きにくいったらありゃしなかった。もうカウンター内に引っ込むって決めたとしても、まあまあ動き回るもので、その度その度水滴がポタポタ落ちるし足に重たいズボンがまとわりつくしで……。


 目の前にある査定物に嫌味のひとつでも言ってやりたくなる気分だ。

 それでも仕事は仕事なので黙々と段ボールに詰まった大量の本をスキャナーに通していった。


「……なんか、今日はもうあの大口の買取で全てが終わった感がある一日だった……はぁ……」

 無事迎えた閉店後、ため息とともにスタッフルームに引き上げていく。


「できるなら二度とこんなことはしたくない……」

 帰る準備を始め、僕は戻り際貰っておいたレジ袋にびしょびしょになったシャツを入れてバックに放り込む。


 先に井野さんが更衣室に入って着替えていたようで、ロッカー前でスマホをポチポチいじって暇を潰している水上さんに、

「ハンカチ、ありがとうね。今度洗って返すから……」

 そうお礼を言っておく。


「いえ、全然。……明日、風邪引かれたら大変ですから」

 ああ……うん。約束のデート明日だもんね。……井野さんに聞こえるかもしれないから言わないではおくけど。


「……そ、そうだね」

「……明日も天気予報は晴れみたいなので、絶好のお出かけ日和ですし」


「お、お待たせしました……」

 そこまで話したところで、高校の制服を着た井野さんが更衣室を出る。

「では、お先着替えますね」

 ニコリと微笑んだ水上さんが入れ替わって入る。


「……? あ、そういえば、まだ外、雨降っているんですか?」

 何のことかわかっていない井野さんは少し不思議そうに首を捻りながら、カバンの中身を調べつつ僕に聞く。


「だと思うけどね……」

「……やっぱり、折り畳み傘、今日は持ってきてないんでした……どうしよう……」

「コンビニとかで傘買えないの?」


 井野さんも駅から家が遠い子だ。傘がないと帰るのは大変だろう。しかも、制服だから濡らすと大変だ。

「じ、実は……月初なので色々漫画の新刊本を今日買ったばかりで……財布に百円も残ってないんです……」

「……なるほど」


 なんか不自然にパンパンになっているカバンの中身は全部漫画か。……一応全年齢の。


「電話してお母さんかお父さんに傘持ってきてもらおうかな……あ」

「どうかした?」

 スマホの画面を確認した井野さんは何かに気づいたようにそんな声を出す。


「き、今日お母さんは同窓会で、お父さんは仕事の打ち合わせで出かけているんでした……」

 詰んでますね、それは。

 仕方ないか。制服濡らさせるわけにもいかないし。


 僕はロッカーから財布を出して、なけなしの五百円玉を井野さんに渡す。これが今の僕の全財産。

「え、え……?」


「これで傘買いなよ。返すのはまたいつかでいいからさ」

「で、でもさすがに」

「さっき僕が外に出たときは洒落にならないくらい雨降っていたし、井野さんは制服でしょ? 受験生だし、風邪引いたら命とりだし。気にしなくていいよ」

「……あ、ありがとうございます」


 彼女の小さな手の半分を占める……は誇張かもしれないけど、五百円玉を手渡した頃に水上さんも着替えを終えて出てきた。

 ……さ、さっさと着替えて帰ろう。僕は傘どうしようかな……。

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