第151話 調子が狂うというか
それから次の出勤日。何か水上さんに釘を刺されるかと思ったけど、スタッフルームで顔を合わせたときに水上さんはニコニコするだけで、特に僕に言いたてることはなかった。
……普段の水上さんだったら壁ドンとか更衣室に連れ込むとかバックヤードの物陰に連れ込むとかしそうなものだけども……。
……まあ、しないならしないでそれはそれで。寧ろ平穏なので歓迎です。
制服に着替えて僕もスマホでタイムラインをボーっと眺めて夕礼までの時間を過ごす。
残りのシフトはあとは井野さんで、僕が到着して少し経ってから、高校の制服をはためかせ多少息を切らせながらスタッフルームに入ってきた。
「……はぁ……ぎ、ギリギリでした……ひゃぅっ」
「えっ」
しかし、井野さんは僕の顔を見るなり飛び跳ねるように驚いては顔を赤くさせた。
「……な、何か僕についてた……?」
「いっ、いえっ……そそそ、そういうわけじゃなくて……」
何故か申し訳なさそうに体を小さく縮こまらせて井野さんは更衣室に入っていく。
……何か僕やらかしたのかな……。この間のハプニング的なお泊り以来会うのは初めてだったけど……、それが気まずいとか?
……後々恥ずかしくなるならあんなこと言わなければいいのに。まあそれもそれで井野さんらしいと言えばらしいけども。
井野さんが更衣室から出てくると、おずおずと僕に近づいてきては恐る恐る僕に尋ねた。
「あ、あの……この間、し、シーツに汚れとかついてなかったです……よね?」
「いや? 一度洗濯したけどそういったものはなかったけど」
僕が答えると胸のつかえがとれたように安心した井野さんは、ホッと一息ついてへなへなと椅子に座る。
「な、ならいいんです……。す、すみません……変なこと聞いて」
「……?」
まさかまたおもらしの心配でもしたのだろうか。さすがにあの状況でもらされたら僕も怒る自信がある。……性癖とかそういうのは抜きにして。
水上さんはあの日井野さんが僕の家に泊まったことは把握しているので、特に大きなリアクションを取ったりはしない。
……でも、いつもなら怖いくらいの笑顔を向けたり、唇を噛んだりするのに、それもない……。普段通りスマホを眺めているだけだ。
なんか調子が狂うなあ……。僕、水上さんに毒されているのかな?
前も言ったと思うけど、セールの直後は大抵ボトムが来る。ただ、例外もある。八月のセールの後の九月だ。九月に限ってはなぜかそれほど売上は落ちず、もうひと月した十月から十一月にかけて売上が沈む。夏のボーナスの残りを使うとか、逆に十・十一月になると年末の出費に備えて買い控えをする人が増えるとか色々理由は想像できる。
とにもかくにも、九月はそんなに暇なわけではないんだ。
そして、今日もその傾向の御多分に漏れず、忙しい一日だった。買取はまあまあ来るし、レジも結構並ぶ。金曜日っていうのもあるかもしれないけど、それにしてもな混み具合だ。
ちなみに、金・土・日には基本絶対にフロコンのトレーニングはさせない。理由は単純。こんなふうに忙しくなるから。なので今日は僕が普通にフロコンをやっている。
ただ、そんな客足があるタイミングを境にパタリと弱まってしまった。
「……なんか、急にお客さん減りましたね……どうかしたんでしょうか……?」
買取を助けるために一緒にカウンターに入っていた井野さんがそう呟く。
「多分雨降ってきたからじゃないかな。天気予報は晴れだったのに、散々だよ、ほんと」
僕らの雑談を聞いていたお客のおじさんが教えてくれた。……このおじさん、いつか僕らに中央線が止まっているの教えてくれたおじさんじゃ……。
「そうなんですか、ありがとうございます──井野さん、カウンター落ち着いたから、バックヤードから傘袋取って売り場に出して、そのまま補充に戻っていいよ」
「わっ、わかりました」
井野さんはバックヤードに、中央線おじさんは文庫本一冊入ったレジ袋片手にヒラヒラと手を振って出口にそれぞれ向かっていった。
……うん、常連さんだとこんな感じに友達っぽくなることもしばしばある。
けど雨か……。普通に今日雨具持ってきてないんだよな……。
新宿駅までは地下通路があるから平気だけど、武蔵境駅から家までは結構歩くから嫌だなあ……。あれ、今日持ち合わせあったか?
なんてことを考えていると、お店のPHSを耳に当てて何か話をしている井野さんが傘袋を持ったままカウンターに戻ってきた。
「──え、えっと、ただいま担当のスタッフと代わりますので、お待ちいただけますか?」
やや眉をひそめた井野さんが、困ったように僕に話しかける。
「あ、あの八色さん……ちょっと電話代わってもらってもいいですか?」
「いいけど、どうかした?」
「そ、それが……大口の買取で、今お店の前にいるってお客様からで……持って上がれないから台車か何か持ってきて欲しいって」
……へえ。大口の買取、かあ……。これからですか?
自分の左腕につけている時計をチラッと見て、これから始まる休憩回しに頭を巡らせる。
あと五分もしないうちにまず水上さんと井野さんが先休に入る。つまりこの対応にふたりを入れるわけにいかない。残るのは中番の先輩と、僕なんだけど……。
「……売り場は俺に任せて行け、八色」
どこか遠い目を浮かべた先輩は、力なく右手の親指を立てて僕に言う。
「……わ、わかりました──お電話かわりました八色と申します、はい、はい──」
井野さんから電話を受け取り、僕はスタッフルームに向かい台車の用意をし始めた。
「……うわっ、すっげー量……って、八色……大丈夫か?」
三十分くらいして、ようやく僕は店内に戻ることができた。
いや、これは真面目にプッツンといきそうになったよ。
「大丈夫か大丈夫じゃないかで聞かれたら大丈夫じゃないですね」
「……着替えたほうがいいんじゃ、それ……」
先輩は気休め程度に加工スペースにあるボックスティッシュを手渡すけど、ほんとに気休めにしかならない。
……何もかもびしょ濡れだから。
いや、査定物は死ぬ気で守りましたよ? そこは古書店員としての意地みたいなものがありますから、ええ。
でもね、でもだけどさ……。
「タクシーの精算してから電話掛けるなよさすがに……」
「え? タクシーで持ってきたのこのお客さん」
「はい……。地下駐車場に移動できますかって聞いたら、もうタクシー精算しちゃったから動かせないって。雨強いのに傘なしで本の運搬ですよ。さすがに僕怒っていいですよね?」
買取カウンターに査定物が入った段ボールをドンと大きな音を立てて置く。
「……査定はどうするんだ?」
「精算自体は明日以降でいいみたいなんで、休憩終わったら僕がやりますよ……っくしゅ」
「それはもういいや。とりあえず八色、それ着替えて来いよ。さすがにそれだと風邪引くぞ」
「……上は制服の予備借りるとして……ズボンはないですよ?」
「……そこのコニクロで買ってくるとか」
「この雨のなかですか……?」
「うん。とりあえず上だけ着替えろ」
「……ありがとうございます、そうしますね……」
トボトボとした足取りで、僕はバックに下がる。通った道に水滴が残っているから、相当なびしょ濡れ具合なんだろうけど……。はあ……今日は最悪だ。
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