第145話 いつも見ているので
その日はなんでもないただの平日、ということもあって、かねてから予定していたフロアコントロールのトレーニングを水上さんにしていた。
「……で、加工が進み過ぎたり補充が進み過ぎたりってことになったら、進んでいるほうから人を足りないほうに移して調整するとか、そういうことが今みたいに起きることがあります。それを判断するのもフロコンの仕事です」
入りたてのころみたいに、メモ帳に教えたことを要点よく書き加えていく水上さん。正直、フロコンの仕事内容って抽象的なことが多いからメモするのって大変なんだけど、うまいこと自分の言葉で置き換えて理解してくれているおかげで、これまた教えるのが楽だ。まあフロコンなんて場数踏めばそのうち慣れるんだけど、慣れるまでが大変だし、その期間に頼るメモがあるとないとでは心理的なストレスに結構差があったり。
「なるほど……だと、どっちも進んでないってときはどうなるんですか……?」
「あー……。うん。そういうときは大抵忙しいか人がいないかの二択だから、やりたいことを諦めてやらないといけないことだけに集中することになると思うけど、最初のうちはそういう判断をすることはないと思う」
そんなことになる日にフロコン初心者の人にそれを振ったりはしません。真面目に頭がパンクするから。
「八色さんの顔色が休憩後ゲッソリとしているときってじゃあそういう日だったりします……?」
「……よく見てるね。大体正解だよ……。どこかのちびっ子が仕事真面目にやらなかったりアホみたいに忙しくて予定の半分も加工と補充が進まなかったりとか……毎回やってると胃薬がたまに必要になったりするよ」
「……八色さんのことは常に見ているので」
うん。……うん。そっか。わかったよ。
「ちなみに、補充の順番ってどうやって決めているんですか?」
「大体倒れているところを埋めるように回っていくかな。大体棚っていたちごっこみたいに倒れていくから。単行本の補充をしている間にコミックが売れて、コミックを補充している間に文庫が倒れて、みたいに」
そのループがぶっ壊れるのがセールとかピークタイムなんですけどね。
「最初のうちは僕か小千谷さんどっちかがついてるからそこらへんの心配しなくてもいいよ。迷ったら助言もするし」
「……わかりました」
「あんまり肩肘張らなくてもいいぜー水上ちゃん。店パンクしたって死ぬわけじゃないから、気楽にやろうぜ気楽に」
カウンターで仕事を教えていたので、合間で小千谷さんの茶々が入り込んでくる。
「……よくそんな適当でフロコンやれますね小千谷さん」
「んー? だって一時期できるスタッフ俺しかいなくて、地獄みたいな時期があったからなー。ほんと、あれは死ぬかと思った」
あれですか、人間恐怖が一定の域を超えると笑うことしかできなくなるみたいな。
「……慣れれば楽しいから。慣れれば」
「八色さん。本気でそう思っているならもっと笑って言ってください……本音が漏れてますよ」
「……嘘ではないよ。嘘ではない」
「そこまでおっしゃるならそう思っておきますね。……八色さん」
なんと言われようが構わない。今は後続を育てないといけないんだ……。
と、まあ、途中そんな雑談もとい愚痴も挟みながら、水上さんのトレーニングはほどよく進んでその日の営業時間は終わりを告げた。
帰り道。小千谷さんと別れて新宿駅へと向かう途中、僕は隣を歩く水上さんに尋ねた。
「……ところで、土曜日って何をする予定なの……?」
ホテルとか連れ込まれたりしないよね……?
「まだ詳しいことは決めてないんですけど、お台場行ったことないので、行ってみたいなと思っているんです」
あれ……。意外と普通だった。お見合い会場に箱根まで押しかけたりキャンプ場に二度も突入したりする水上さんにしては、やけに普通の提案……。
「へ、へえ……」
「お台場、嫌いでしたか……? でしたら変えますけど……」
「いや、嫌いではないよ。僕もそんなに行ったことないし」
「……ならよかったです。じゃあもうお台場で決めちゃいますね」
「う、うん……」
一応最後まで油断は禁物だ。当日になってホテルにいきなり連れ込んだり尾久にある自宅に連れ込まれたりカバンからいきなりスタンガン取り出して気絶させられたりとか色々あるだろうし。……さすがに一番最後のはないよね? ないって信じていいよね?
注意はしておくに越したことはなさそうだ。とりあえず当日は背中を取られないようにだけ気をつけておこう。
例によって中央線のホーム下に到着すると、
「それでは、お疲れ様でした……」
微笑みとともに手をこっそり振って階段下で僕を見送る水上さん。
……未だに真意がつかめない。アプローチを変える、の言葉の……。
今日の勤務中もまあまあ重たい発言が聞こえたし、いつもと変わらないようにしか思えない。
とにかくモヤモヤするというか……なんというか……。
そんな疑念を抱きながら帰りの快速電車に揺られて、家へと帰っていった。
迎えた八月三十一日。まごうことなき高校生の夏休み最終日。この日僕はお休みで、確か出勤は小千谷さんと水上さんのふたりのはず。あと、月末ということもあって宮内さんも閉店までいるはずだからメンバーは足りている。
大学生の夏休みはもうしばらく続くので、別に大した感慨も抱かずに僕はその日を過ごしていたのだけど。……いつも夏休みみたいな生活をしているだろ、という突っ込みは一応受け入れておきます。
ぼんやりお茶の入ったコップ片手に積んでいた本を読んで昼下がりの休みを満喫していると、何の予兆もなくドアのインターホンが鳴らされた。
「…………」
ここ最近、インターホンが鳴るすなわちろくなことが起きないという認識を持っているゆえに、軽―く鳥肌が立つ。拷問を使った人体実験みたいな拒否反応かな。
しばらく放置していると、再びインターホンが押される。
「たーいーちーセーンーパーイ。あっそびまーしょー」
……ほらやっぱり。歩くトラブルメーカーがやって来た。しかしこのシフトで来るということは、恐らく……。
これ以上放っておくと玄関前で騒ぎ出して迷惑なので、大人しくドアを開けると予想通り。
浦佐の後ろに隠れるように井野さんもおどおどと付き添っていた。
「……何の用だよ」
ニマニマと笑う浦佐に雑に聞くと、浦佐はごそごそとカバンのなかからある冊子を取り出し、僕の目の前に掲げる。
「いやー、実は……夏休みの課題がまだ終わってなくてっすねー」
「…………」
小学生かよ。いや、小学生かよ。
こいつは学生の夏休みをどこまでも満喫するみたいで、お約束の八月三十一日ネタコースも味わうようだ。
……自分の家でやってくれよお……。
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