第142話 おはようございます
なんか魂を抜かれたような心地のまま、僕はテントに戻った。パサリと音を立てて屋外とはまた違った薄暗さ流れる半屋内へ。
音を聞いたのか、母親の袋からおずおずと様子を見る子リスみたいな感じに井野さんが寝袋から耳を両手で閉じたまま顔だけ覗かせた。
「……へ、平気でしたか……?」
さて、これで正直に水上さんだったよと言って果たしていいのか一瞬の間だけ考える。
僕がそれを言われたら普通にぞっとするし、理由がえっちなことしていないか、だから井野さんもあまりいい気はしないと思う。……だよね?
かと言って何もいなかったよではますます幽霊・お化け疑惑が井野さんのなかで強まってしまうので、ここは見知らぬタヌキさんに罪を被ってもらおう。
「野生のタヌキがいたんだ。多分それが人の影に見えたんじゃないかな。僕が出てきたら慌てて逃げていったからもう大丈夫だと思うよ」
ごめんよ見知らぬタヌキさんよ。これが一番丸く収まるんだ。
「そ、そうなんですね……よ、よかったです……」
井野さんはホッとしたように手で胸を撫で下ろす。寝袋の上からね。
すると、安心しきったことで少し余裕が生まれたのか、やや頬を紅潮させた井野さんは、
「あ、あの……や、八色さん。重ね重ねで申し訳ないんですけど……」
とおどおどしつつ僕に言う。
「うん? どうかした?」
「……じ、実はずっとお手洗い我慢していて……い、一緒について行ってもらっていいですか……?」
「……うん、いいよ」
僕も明日の朝、またおねしょの後片付けをするのはごめんだからね。
「す、すみません……お待たせしました……」
テントから少し歩いたところにある公衆浴場、ここのトイレは二十四時間開いているようで、こういうときに使うようだ。
ハンカチ両手に出てきた井野さんは、少しだけ小さく背筋を曲げて女子トイレから姿を現した。
「僕もついでに用足したし、全然全然。じゃあ、戻ろうか」
「は、はい……」
お化けの疑惑はなくなったとは言え、やはり夜道は怖いみたいで、ぴったり僕にくっつく距離感で隣を歩く井野さん。そんな彼女の様子を見てふと、僕は疑問に思って尋ねた。
「……いつものバイト帰りとか、大丈夫なの? 帰り道、ほとんど人通りないし」
「ただの夜道や暗い場所は平気なんです。それに、お化けとかそういう心霊要素が加わると一気に駄目になっちゃうんです……」
なるほどね。まあ、帰り道駄目だったらそれこそバイトどころではないだろうし、聞くだけ野暮って奴だっただろうか。
「……なんでそんなにお化けが駄目なの?」
「……八色さんって小学生のときに、戦争関連のアニメとか見ませんでした?」
「まあ……一応は」
有名どころは全部授業で見たんじゃないだろうか。
「結構そういうアニメって描写が生々しくて、子供ながら結構衝撃だったみたいで……それ以降めっきり駄目です」
確かに、苦手な人は目を覆うような表現も多々あるしね。そういうのって。今じゃ絶対作れないしテレビじゃ流せない。
「そういうのってなかなか直らないしね。しょうがないよ」
なんて雑談をしているうちに僕らのテントに着き、再び寝る準備をするのだけど……。
井野さんはさっきと同様に僕と同じ寝袋のなかに入ろうとする。
「……またここで寝るの?」
もうお化けじゃないこともわかったし、寝袋はもうひとつあるから別にそっちでもと思うのだけど……。
「ひっ、ひゃいっ……で、でもっ……やっぱりここは出るらしいので怖いのは変わりなくて……め、迷惑でしたか……?」
「い、いや……迷惑ってことはないけど……」
そんな涙目になりかけながら言わないで欲しい。……そんなことされて駄目ですなんて言えるはずないでしょう?
「……な、ならいいですよね……?」
井野さんはもはや開き直ってひょいとさっきみたいに向かい合わせに抱き合うような形で寝袋に入ってくる。
「……そ、それに……八色さんの匂いってなんだか安心するんです……優しい感じがして」
僕の胸元ですうと大きく空気を吸い込んでいる井野さん。……そう言われることは素直にまあ嬉しいのだけれど、普通に恥ずかしくもある。
「あ、あの……あまりあからさまに匂い嗅がれるのは……」
「すっ、すすすみませんっ……わ、私ったらつい……」
結局生殺しというか、この至近距離で一夜を明かさないといけないんですね……。
今度の井野さんは昨日の寝不足もあって、すぐに目をうとうととさせ始めた。さっきの影がお化けじゃないという安心感もあるとは思う。やがて、小さな寝息を立てて、僕の側で胸を微かに上下させるようになった。
さて……僕もどうにかして寝ないとな……。こんな環境だけど。
修学旅行とかホテルとか、なぜか妙に早起きをしてしまう現象ってあると思う。一時間くらい余裕を持って目覚めてしまうみたいな。
今僕はまさしくその状況で、確かに外は明るくなっていて、鳥のさえずりが聞こえてくるから朝なんだけど……。
昨日寝たタイミングより、井野さんがより密着している気がするのは気のせいでしょうか。なんだったら足と足が絡みあっているし。両腕はがっしり僕の背中に巻きついているし、おかげで井野さんのたわわな膨らみが押しつけられているし。
……目覚めからこれは正直刺激が強すぎる。
別に意識したわけじゃないけど男性特有の朝の生理現象が発生していて何気に困ってもいる。
……お風呂場のときは仕方ないとはいえ、今こんなことになっているの知られたら誤解されても仕方ないんだよな……。
「うーん……どうしたものか……」
しばらく悩みに悩んでいると、勝手に事態は動いてくれた。というのも、
「円―、八色君―、おはよう、朝だよー……ってごめんごめん。お取込み中だったみたいだね。ごゆっくりどうぞー」
車で夜を明かした章さんが僕らのことを起こしに来たんだけど、ばっちり同じ寝袋で眠っているところを目撃してしまったんだ。
「ふぇ……っっっ。おっ、お父さんっ……」
井野さんも章さんの呼びかけで目を覚ましたらしく、この光景を見られたことで一気に顔が熱くなっていく。
「はわわわわ、ちっ、違うのお父さんっ、こっ、これはっ」
「うんうん。やっぱり円は受けだな。しかし誘い受けと見た。いいのいいの。思春期だもの、そういうこともしたくなるよねー。僕もそんな気持ちわかるから。うんうん。また一時間後に来るから、それまでに終わらせてね」
「ちっ、違うんだってばお父さんっっ、ううっ……」
……いや、ある意味感謝しないといけないかもしれない。強制的にこの状況にピリオドを打ってくれたのだから。
朝の生理現象も誤魔化せたのだから。
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