第141話 切り替え宣言

「ぅぅ……も、もう嫌ですうう……」

 抱き枕ならぬ抱き井野さんみたいな感じになっているがこの際気にしない。というか人間って本気を出せばここまで小さく丸まれるんだと初めて知った。……ちょっと大きめのボール、くらいになってるよ。


 影は幾度となくテントの周りを動き回っているし、その動きを止めることはない。

 うーん、このままだと井野さんがぐずったまままた寝不足になって、帰りの車でまたやらかしちゃうよ……。

 埒が明かないので、一旦外に出て様子を見るか。うん、そうしよう。


 僕はふたり入ってギチギチになった寝袋から出ようとする。と、

「や、八色さん……? そ、外に出ちゃうんですか?」

 ぐずる子供のような表情をした井野さんが、僕の右手を掴んで引き留めようとする。


「ちょっと外の様子を見に行くだけだよ。多分だけど、犬とか猫とかの野生の動物がひょっこり出てきたか、お父さんあたりが驚かせようとしているかだと思うから。すぐ戻るし平気平気」


 井野さんは一瞬たりともひとりになりたくないようで、どこにそんな力を持っているのかと驚くくらいに強く僕の手を握る。

「す、すぐですからね……? ほ、本当ですからね……?」

「う、うん」


 そこまでいってようやく井野さんがゆっくりと、手のひらに捕まえたテントウムシを逃がす要領で掴んでいた右手を離し、僕はテントの外に出ることが叶った。

 知っていたことだけど、このテントの周りに他の利用客のテントは存在しない。誰かがトイレへの行き来に歩いたとしても、ずーっとここの周りを歩く理由にはならないし……。


 さっき言ったどっちかだと思うのだけど……。

「……っても、これで誰か本当にいたらそれはそれで怖いんだけどね……」

 テントの出入り口を跨ぎ、月明りしかない夜の屋外に足を踏み出すと、


「…………」

「……あ、やっぱりここのテントだったんですね、八色さん」

 八色太地の行くところ、どこにもかしこも水上愛唯が登場します。って感じでいいですかね。


 僕が出たところのちょうど正面に、水上さんは立っていた。

 この展開は予想していなかった。お昼の突撃で終わりだと思っていたから……。


「え、えっと……またバイクで?」

「バイトが終わったらすぐに飛ばして来ちゃいました……。本当に心配だったので」

 僕の童貞が?


「……もしテントからいやらしい声が聞こえてきたら、私我を忘れて突入するところでした……」

 うん、井野さんが流れのなかで変な声出す前に外に確認に出てよかったと思います。そのほうが心臓止まるから。


「さすがにこんな半屋外で事に及ばないって……」

「……じゃあ屋内だったら井野さんと事に及ぶんですか?」

 言葉尻を捉えるように、水上さんはグイグイと僕の目と鼻の先に近づいては綺麗な顔を向けてくる。


「……そういう意味じゃなくて。それこそ僕が犯罪者になるって」

「どうしても犯罪者になりたいんでしたら、今ここで私と事に及べばいいんじゃないでしょうか……?」


 そう言って水上さんはシャツをはらりとめくって自分のおへそを露わにする。……お昼にそれ以上見たんでもうなんともだけど、不意打ちともなると多少鳥肌は立つ。


「野外でする趣味は完全にないから安心していいよ。あと内定取り消しになるし」

「そうなったら私が責任を取って八色さんを養うので大丈夫ですよ……?」

「はぁ……。それで、ただ様子を見に来ただけなの?」


 僕が未だ至近距離にいる水上さんに聞くと、ニコリと飴細工みたいに、美しいと形容すべき笑みを浮かべる。

「……すんすん、八色さんの家のものじゃない柔軟剤の香りがします。……井野さんですね?」

「……まあ」


「普通の距離感でしたら匂いが移るなんて起きないと思うんですが、どういうことなんですか……?」

「いや、その……ここのキャンプ場、お化けが出るって話らしくて、それで井野さんが完全に怖がっちゃって……同じ寝袋で寝てたから、かと……」


 嘘をついてもしょうがない場面ではある。どうせ誤魔化したところで水上さんに通用するはずはない。

「……八色さんって、なんだかんだ言って井野さんには甘いですよね」

「えっ?」


 すると、水上さんは僕との僅かな距離をさらに近づけては、僕の唇に自分の唇を押しつけてきた。なすがままに、僕は草むらの上に押し倒される。

「……はぁ。……上書きです。井野さんばっかり八色さんを独占してずるいので、これくらいいいですよね……?」


「ちょっ、えっ……」

 透明な糸が一本弧を描いて、水上さんは顔を離す。


「……私はいつだって本気です。八色さんと付き合いたいことだって、八色さんとの子供を妊娠したいのだって、全部本気です。冗談なんかじゃありません。……初めて、自分から本気で好きだって思えた人なんですから……」

「いやっ、そ、それはそれでいいんだけど……」


「井野さんは違法。……たったこれだけの言葉で井野さんのことを躊躇する八色さんが、来年春に社会人と大学生、っていうまた地位が違う井野さんを選べると思いますか?」

 これに関してはぐうの音も出ない正論なので、反論することができない。


「……浦佐さんも同じですけど、あまり希望を持たせすぎると、後から選ばないときお互い辛くなるだけだと思いますよ……? 特に、八色さんに依存気味の井野さんは……」

 依存以上のことをしている水上さんがそれを言うかとも思うけど。


「……早く八色さんに私を選んで欲しんんですが、でも、いくら押しても八色さんの心は傾いてくれないので、八色さんのアドバイス通り、少しアプローチを変えようかと思うんです」

「……はい?」

「今日はそれを言いに来たっていうのもあります。本題は、井野さんとえっちなことをしていないかの確認ですが」


 すると、水上さんは満足したように表情を崩して、スタスタと駐車場の方角へと歩き始める。

「そろそろバイクを返さないといけないので、私は帰りますね。井野さんに言っておいてください。怖がらせちゃってごめんね、って」


「え、う、うん……」

「あとそうそう、また今度、デートしませんか? 浦佐さんに井野さん、あと妹さんともこんな夏の思い出作って、私とは何もないのは不公平です」


 ……し、仕方ないなあ……もう。

「わ、わかったよ……」

「ありがとうございます。日にちとか詳しいことはまた後で詰めましょう? では。……あ、くれぐれも妙な気を起こさないでくださいね? ……八色さん?」


「そっちこそ、居眠り運転とかして事故起こさないでよ……。今日だけで何時間運転しているんだか」

「……ご心配ありがとうございます。おやすみなさい」

「……うん、おやすみ」


 幽霊の正体見たり水上愛唯。枯れるどころか活き活きとしていましたけど……。

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