第136話 中途も多難

 ……鼻血を出したいのは僕のほうなんだけど、って言いたいけどそれを言っても始まらない。

 美穂はそもそも妹だし、浦佐で鼻血を出したら僕はそのうちお縄につく。水上さんに襲われたときはほんとに襲われていたからそんな余裕はなかった。


 ……二十二歳童貞には刺激が強すぎる状況なんですこれは。相変わらず背中にはなんか感触するし、下腹には井野さんの細い手がしがみついているし。……お湯の色はちょっとだけ変色しているし。


「……こ、こんなことになるんだったら眼鏡かけてくればよかったです……ぅぅ……」

 ああ、なるほど。井野さんも僕と同じで、きっと露天風呂の案内の文字をちゃんと読まずに入ったクチなのだろう。眼鏡を持ってきているならそれのほうがよかったかもね……。


 っていうか、井野さんこの後どうするつもりなの? あのお爺さんたちが上がるまでこのまま? その間にもし他の人が入ってきたら?


 熱いお湯に入っているからかそれともこの気温なのか、はたまた背中に年頃の女の子がくっついているという状況にかはわからないけど、めちゃくちゃ汗が出てきている。……お風呂だしちょうどいいね……。


 どれくらいの時間が経っただろうか。幸い、他の人が入ってくることはないまま、お爺さんたちが上がろうかと話をし出していた。

「お兄さん、わしらより先に入っていたけど大丈夫かい? そんなに長湯して」


 まあそんな心配もしたくなりますよね。ええ、正直に言うと大丈夫ではありません。めちゃくちゃ上がりたいです。

 しかしそれをぶっちゃけるわけにもいかないので、作り笑いを浮かべて「はい、もう少ししたら出るので」とだけ言って内心早くあがってくれ……と願い続ける。


「それじゃあ、お先に失礼。いいお湯を」

「ありがとうございます」

 お爺さんたちは仲睦まじげに語り合いながら、屋内へと戻っていく。

 ……いいお湯をってなんだ? 「have a nice day!」的な?


 これで問題は解決された。あとは井野さんを女湯に帰還させるだけ!

「井野さんっ、もう大丈夫……。い、井野さん……?」


 僕は立ち上がって、背中にひっついたままの後輩に移動を促そうとしたのだけど、抱きついていたはずの井野さんの両手が力なく僕の体から離れて、ザボンと大きな音を立てて今度はお湯のなかへと落ちていった。


「ふにゅぅぅ……」

 という、よくわからない脱力しそうな声をあげながら。

「井野さんっ、井野さんってばっ!」

 ……多分、空腹と鼻血と長湯が祟って、のぼせたんだと思います。


 そのままお風呂に沈んだままにするわけにもいかないので、お姫様だっこの要領で風通しのいい岩陰へと井野さんを連れて行った。ひとつ突っ込みどころがあるとしたら、男も女も全裸である、ということだ。


 もう僕もわけがわからないよ……。

 なけなしのタオルで井野さんの大事なところだけは隠した状態で仰向けに寝かせる。……あとはもう見ないようにするんで。


「井野さん……歩ける? 大丈夫?」

「……ちょ、ちょっと休めば大丈夫かと思います……す、すみません……ひっ、ひぅぅ……」


 井野さんは顔を上げて僕のほうを向いてそう言ったのだけど、その際に上向きになっている例のあいつも見てしまい、また鼻血を噴射してしまう。

 ある意味で天国である意味で地獄絵図だよこんなの……。


 さすがに僕が女湯まで連れて行くことはできないので、なんとか自力で戻ってもらわないといけないのだけど、それまで時間が必要かな……。

 誰も来ないことを祈るだけ……だね。

 せっかくお風呂でのんびりしていたのになあ……。

「はぁ……」


「ため息なんてついてどうされたんですか……? 八色さん」

「ひょえっ?」

 いきなり聞こえた第三者の声に驚いてしまった僕は、変な声が漏れてしまった。


 恐る恐る後ろを振り向くと、顔は笑っているけど目は笑っていないこれまた裸の水上さんが立っていた。

「……ぁ、ぇ、な、なんでここに水上さんが……」


「いえ、ちょっとお風呂に入りたいなあと思って、バイクを走らせて来ちゃいました……」

「きょ、今日シフトだよね……?」

「はい。なのでこれから新宿に戻りますよ?」


 そ、それはそれでお疲れ様です……って、そうじゃなくて。

 少しは隠す努力をしようよ水上さん。どうぞ見てくださいって言わんばかりの両手の位置ですよ?


「……井野さんでしたら私が脱衣所まで連れて行きますよ。……そんなことより。そういえば最近言ってなかったので、忘れちゃいましたか? ……井野さんは、違法ですよ?」


「ひっ……わっ、わかってるって……」

「……でもそんなに大きくされていても説得力がないですよ……?」

 まじまじと僕の僕を興味津々に見つめつつ、水上さんはそう言う。


「こっ、これはっ……仕方ないって……こうなっちゃうんだって……」

「まあ、仕方ないですよね? ここ五日間ご無沙汰なので八色さんも溜まってますよね?」

「……な、なんで水上さんがそれ知ってるの」


 水上さんは何か大事なものを触るような手の動きで、右手を僕の僕に近づけていく。

「え、ちょちょ、な、何する気なのっ」


「……ご無沙汰な上にこれだけ興奮しちゃうと、もう気持ちよくなったほうが楽になるんじゃないですか……? 八色さん。お手伝いしてあげますよ……? でないと……今日の夜ムラムラしちゃうかもしれないですし……それに、井野さんだけ触ってるなんて不公平です」


 僕の性事情まで把握していることに一定以上の恐怖を覚えつつ、さらにこの状況に恐ろしさを感じてしまう。あといつから水上さんは露天風呂にいたの。

「いや、いいっていいって……自分の世話は自分でするって」


 井野さんよりはやや小ぶりな膨らみを揺らして、水上さんは僕に近寄ってくる。

 これ以上はまずい。逃げよう。水上さんがいるから最悪井野さんは大丈夫だ。多分。


 踵を返して僕は男湯に早足で動きだそうとすると、

「み、水上さん……。も、もう平気ですので……だ、大丈夫です……。あ、あと……八色さんが困っているので……そ、そのくらいでやめてあげてください……。悪いのは……わ、私なので……」


 立ち上がったもののフラフラと体が揺れている井野さんが、水上さんを止めに入った。

「い、井野さん、無理しなくてもいいって」

「そ、それに……そろそろ水上さんも帰る支度をしないと、新宿まで戻れないんじゃないですか……?」


「……わかりました。今日はこれで帰ります」

 井野さんの説得に負けた水上さん。僕はそれを聞いて、ホッと胸を撫で下ろす。


「……八色さん。また、次のシフトでお会いしましょうね……?」

「う、うん、お疲れ様―はははは」

 はは、ははは……。

 井野さんを連れて一緒に女湯に引き上げる水上さんの後ろ姿を確認してから、僕はへなへなとその場に座りこんだ。


「……どうしてこうなるかなあ……」

 前途も多難だったけど中途も多難だよ。後途も多難なのかな……この調子だと……。

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