第137話 アイスと空調

 お風呂から上がったあとは、ひたすら無心でドライヤーで服を乾かしていた。さっきのお爺さんたちはまだ脱衣所でのんびりしているようで、「なんだいお兄さん。川にでも落ちたのかい?」と面白可笑しそうに話しかけてもきた。


 いつもだったら「ええ、まあ」くらいで軽く受け流す度量があったのかもしれないけど、水上さんの襲来で完全に心がすり減っていたからか、とりあえず聞こえなかったふりをして無視してしまった。

 なんか色々すみません……。ため息もつきたくなるよこれじゃ……。


 服を乾かし終えて、脱衣所から自販機や売店が並ぶロビーに戻った。すると、先に井野さんが出ていたようで、ロビーに置かれているフカフカのソファに座って僕のことを待っていた。やはりコンタクトは外していて、今は眼鏡をかけている。


「…………」


 しかしまあ気まずくもなりますよね。さっきまでお互いの裸を目にしていたわけだし。井野さんも居心地悪そうに首をすくめて、様子を窺うように僕の顔をチラチラと見上げる。


 僕はそんな井野さんの隣に座り、

「ところで、水上さんは?」

 ポケットにしまっていた財布の中身を確認する。……まあ、これくらいなら平気か。


「み、水上さんでしたら、やっぱり結構時間ギリギリだったみたいで、すぐにここを出発してきました……」

「まあ、そりゃそうだろうね……。ところで、気分は大丈夫? 結構体ふらついていたけど」


「は、はい。もう大丈夫です……。す、すみません……せっかくここまで来たのに、結局こんな感じになって……」

「いや、井野さんが気にすることじゃないよ……あれは、なんていうか……そう。不可抗力だよ、不可抗力」

 そう思わないとやっていられない。


「……何かアイス食べない? 奢るよ?」

 僕はパタンと財布を閉じて右手に持ち、ソファから立ち上がる。目の前にある売店のほうを向いて、井野さんに聞いた。


「え、でっ、でもそんなの悪いです……」

「……多分、井野さんはそれくらい要求してもバチは当たらないことされているからね? ……なんかこの手のハプニング多すぎて感覚麻痺しそうだけど、普通そうそう他人に裸なんて見られないし、見せていいのは恋人くらいだからね」


「……わ、私は別に……ちょ、ちょっと恥ずかしいですけど……八色さんに見られるのは……」

「…………」


 ごめん、井野さんってそういう子だったね。よくも悪くも一直線だった。いや、それだと水上さんとの比較がつかないから井野さんは線分、水上さんを直線にしておこう。……突き抜けた二点は何かって?


 ……法と羞恥、ということにしておこう。


「さ、アイス、何がいい?」

 売店に入って、アイスが並んだ冷凍庫のなかから、目ぼしいものを探していく。僕はソーダ味のゴリゴリ君にしよう。……ほどよくアイスで、ほどよく喉が潤うものを今は食べたい。


「え、で、でも……」

「いいのいいの……。あれだったら今日連れて来てくれたお礼で……」

「……だ、だったら……私はこれで」


 数秒考えたのち、一番シンプルなバニラのソフトクリームを井野さんは選んだ。僕はそのふたつを冷凍庫から取り出して、レジに歩く。


「ありがとうございましたー」

「じゃ、ソファで食べてから、テント戻ろうか」

「は、はい」


 さっきのソファに座り、僕はビニールを破ってゴリゴリ君をかじり始め、井野さんはなんだかんだ言いつつも幸せそうにソフトクリームを舐めている。ちょっぴり唇にアイスが残っているのが可愛い。


「……そういえば、眼鏡かけた井野さんって久し振りかも」

「た、確かにですね……。人前では基本コンタクトになりましたし、せいぜいお風呂からあがって寝る前くらいしか眼鏡かけなくなりました……。め、眼鏡、変ですか……?」


 自信なさげに眉を困らせて、片手で眼鏡を外しレンズを眺める井野さん。

「いや。……なんていうか、僕にしてみれば眼鏡をかけている井野さんのほうが付き合い長いから、なんか懐かしいなあって……」

 といっても、そのときはまだ髪が長かったけどね。


「……眼鏡のほうが、よかったりしますか……?」

「コンタクト薦めたの僕だし、僕は今のほうがいいと思うけどね……。眼鏡も眼鏡でいいとは思うよ」

「そ、そうなんですね……。あっ、あのっ……そ、その……髪切ってコンタクトにする前と、今の私って……ひゃぅっ」


 ちょっと大事なことを聞こうとした手前、手の動きと顔の動きが噛み合わなくなってしまい、頬や眼鏡のレンズにアイスがついてしまった。

「……ぅぅ、今日はほんとにとことん上手くいきません……」

「は、はい……ポケットティッシュ」


 悲しそうな顔を浮かべる井野さんに、これまたポケットに入れておいたティッシュを手渡す。

「あ、ありがとうございます……」

「……それで、昔と今って話だっけ? どっちも可愛かったと思うよ。僕は。……ただ、今のほうが僕の好みに合っている、ってだけで」

「ひっ、ひぅっ」


 僕がそう言うと、また再び頬にアイスをぶつけた井野さん。……ほんとに上手くいきませんね今日は。リバースに始まり何から何まで。

「……もう、いいよそれ全部使って」

「す、すみません……」


 冷房のきちんと効いたロビーで、お風呂で火照った体温を冷ましながら僕は続ける。

「っていうか、ね。昔の井野さんだってちゃんと頑張っているのは見てたからさ。それで良い印象持たないほうがどうかしているよ、きっと」

「…………」


 僕がそう言うと、井野さんは慌てて頬と眼鏡をティッシュで拭いて、カチャリと眼鏡で表情を隠すように木目の床を向く。

「……僕、何かまずいこと言った?」

「いっ、いえっ……そ、そういうわけじゃなくて……」

「……?」

「や、八色さんのそういうところがずるいんですっ」


 僕にはちょうどいい空調なのだけど、井野さんにとってはそうでもないのか、顔を火照らせたまま彼女はアイスクリームを僕の口に押し込む。

「うわっ、……ど、どうしたの急に」

 あやうく落としそうになったけど、なんとか一口だけ含んでアイスを井野さんに返す。


「……いっ、お礼です」

「……そんなキャラだっけ、井野さん。……それに、なんか知らないけど井野さんのアイスだけ溶けるの早いけど……」


 僕のゴリゴリ君はまだ余裕がある。でも、井野さんの持つアイスはすでに地面に首を垂れ始めている。

 井野さんの熱で溶けが進んでいるのかな……。……慣れないことしなければいいのに。

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