第125話 もうコスプレなんてしない

「それじゃ、楽しみにしてるねー」

 軽くなったリュックサックのせいか、それともキャンプの話をすることができたからか、お父様はとてもとても軽い足取りでお店を後にした。


 僕はまだしも、井野さんはとてもゲッソリとした顔色でその背中を見つめていた。

「……水、飲む?」

 いたたまれなくなった僕は休憩終了間際にスタッフルームにある自販機で買った未開封のミネラルウォーターを井野さんに手渡す。


「……飲みます」

 井野さんはそれを受け取って一旦お客さんからは見えないカウンターの奥まで行って、ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲んだ。


 ……め、珍しく怒っている……? それともこれが反抗期っていう奴でしょうか?

 カツンと飲み物を保管しておくクーラーボックスを閉じた井野さんはスタスタと加工スペースに戻り一言。


「……も、もうコスプレなんて絶対にしませんからっ」

 ……はい、僕は基本的にさせる気はありませんよ。それこそあなたが失言をかまさなければ。


「あ、あんな恥ずかしい思い……こりごりです……」

「んえ? 井野ちゃんコスプレとかするんだ?」

「ひゃっ、ひゃぃっ?」


 ……いつの間にか売り場に出ていたのか、コンテナに加工を終わらせた家電の数々を積んだ小千谷さんが会話に混ざっていた。……どうやら、話も少し聞いていたようだ。


「意外だなー。井野ちゃんにそんな趣味があっただなんて」

 ケラケラと軽く笑いながら小千谷さんは、レジのすぐ近くにある家電のショーケースの鍵を開けて、商品を陳列していく。


「ちっ、違いますっ、そ、そんな趣味私は持って」

「あーじゃああれか? 八色専用とか?」

「んぶっ!」


「……もうちょい綺麗にむせろよ八色……」

「僕専用って、どんなキャラだと思っているんですか僕を」

「女子大生と女子高生を複数人はべらせている女たらし」

「いつ僕がたらしたんですか」

「ナウ? おまっ、しかもたらしたとか言うなよ。なんか邪な想像してしまうだろうが」


「ひぅ……た、垂らす……」

「「…………」」


 切り替えが早いのはいいことだと思います。でも、「垂らす」は一般的な動詞だと思います。それすら駄目となると、僕は一体何語で会話をすればよろしいのでしょうか。英語でしょうか。それともこだまですか?


「井野ちゃんがむっつりスケベなの俺忘れてたわ」

「今後覚えておいたほうがいいと思いますよ」

「ああ、そうする」


 さっきまでお父様への怒りがやや漏れていたというのに、今では妄想で発火してしまっている。……僕の同情を返して欲しい。


「と、とりあえず俺は家電の補充に出るわ。後処理は頼んだ」

「あ、後処理……ひゃぃん……」

「「…………」」

 もう普通に会話することすらできないのか。この店は。


 僕と小千谷さんはもう目を見合わせてこれ以上何かを言うのはやめようというアイコンタクトを取った。

 無言でサーっと、小千谷さんは家電の補充、僕は本の加工に移り始め、ゆるーく暴走をしている井野さんを放置して場を鎮めることにした。


 その後、レジや買取にやってくるお客さんに変なことを言わないか多少ドキドキしつつ、残りの営業時間を過ごした。閉店になって、お客さんが誰もいなくなったのを確認して胸を撫で下ろしたのは何気に初めてかもしれない。……セールのときとかは、胸を撫で下ろすのではなく、やっと終わったか、って感覚だし……。


 閉店作業も難なくささっと終わらせ、てきぱきと帰りの準備を整えた僕ら三人は、二十二時ちょっと前にビルの通用口を出た。すると、

「げ」


 通用口を出たところにある歩道のガードレールによりかかるようにして立っている津久田さんが。……会うのはお見合い以来かも。


「ちょっと、げって何げって」

 小千谷さんの素直な反応を見て、津久田さんは頬をむくれさせて詰め寄る。


「いやっ……か、佳織の顔を見るとすごく震えるというか……」

 小千谷さんは顔を青ざめつつ両手を前に合わせて、ちょうど自分の股間が隠れるような位置に置いている。

 ……これもこれで余程のトラウマなんでしょうね……。


「……また蹴ろうか? 潰れるまで」

「いくらなんでもそれは理不尽だと思うけど」

 津久田さんの場合本当に潰れるまで蹴ったという実績があるから、冗談で済ませられないところが……。


「そんなことより。せっかく仕事終わるの待っててあげたのに、その反応はないんじゃないの、こっちゃん」

「べ、別に俺は待ってほしいなんて思ってねーぎゃああああ、やめっ、首根っこ掴むなあああ」

「というわけで、こっちゃんお借りしていきまーす。じゃあね、八色君、井野さん」


 にこやかな笑みで成人男性を引きずる津久田さんを、やや遠い目を向けつつ見送った僕は「は、はーい」としか言うことができず、夜の新宿に響き渡る小千谷さんの悲鳴から耳を塞いで地下街へと進み始めた。


 ……あれがお見合い邪魔した男ですよ? 信じられます? そんな劇場版だけ格好よくなるキャラじゃないんだから……。


「……そ、その、やっぱり蹴られると痛いんですか? 男性って……」

 僕の隣についてきていた井野さんは、恥ずかしそうに俯きながらそう尋ねた。


「……まあ、なんて言うか。痛いとは微妙に違う感覚なんだけど、もう痛い以外に形容できる言葉が見つからないからとりあえず痛いって言っているんだよね」

「そ、そうなんですね……」


「……なんで僕の下半身をまじまじと見ながら言っているの」

「ひっ、ちっ、違うんですべべべべつにそういうわけじゃ」

 閉店してとりあえず収まっていた暴走がまた始まったようだ。一体何が引き金になるかわかりませんねこれは。


「もう怖いから何も聞かないでおくよ。うん」

「ひゃ、ひゃい……」


 やや頬が上気している井野さんと別れ、帰りの電車に乗った頃、ある人物から「井野さんとキャンプ行くらしいって話、本当ですか?」というラインが届いたのはまた別の話。


 ……一体どこから情報を入手したのかは知らないけど、まあいつか気づくだろうなとも思っていたので予定の範囲内だ。

 あまり返事に時間をかけるとやましいこと認定されかねないのですぐに「お父さんに誘われたんだよ」とだけ返しておいた。


 三分後、「へぇ……そうなんですね」とだけ送られて、微妙に寒気がしたのもまた別の話、であって欲しい。

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