第123話 ちっちゃいことは気にするな
それから井野さんと何往復かラインを交わすと、電車は僕の家の最寄り駅に到着した。ホームに降りるなり、僕はすぐに電話を掛ける。
電話口の向こう側からは、閑静な住宅街を歩く井野さんの足音が聞こえる。もう電車を降りて家に向かっているのだろう。
「ひゃ、ひゃいっ、もひもひ」
「……いきなり噛まなくても」
「す、すっ、すみません……。電話がかかるとどうしても慌てちゃいまして……」
僕も別にホームで立ち止まる趣味はないので、改札階に降りて同じように暗闇の街並みを進み始める。
「……それで、キャンプって、本当なの?」
「は、はい。……最近、キャンプをテーマにした漫画原作のアニメが大流行したじゃないですか。お父さんもそれを見てキャンプ行きたがっていて……いい機会だしどう? って」
……確かにアニメを見ない僕にもブームが伝わるくらい流行っているのは知っているけど。古本屋あるあるね。流行りの漫画はかなりの頻度で在庫を聞かれる。そして大抵「すみません、今は売り切れですね」と言うことになる。
「……原作チラッと読んだだけなんだけどさ、あれって冬のキャンプがテーマじゃなかったけ。今は夏じゃ……」
「こっ、細かいことを気にしたら負けだってお父さん言ってましたっ。そ、それにちょうど秋に出す本の原稿が終わって暇みたいなんです、お父さん……」
「……へぇ……。あと、確か井野さんの家って車持ってないんじゃ……。まさか電車で行くわけじゃないよね?」
「お父さん、免許は持っているんでレンタカー借りるつもりだって言ってました……」
「……ふーん、そうなんだ……」
細かいことを気にした僕に、井野さんはある恐ろしいことを口にした。
「ここ最近現実の男性と絡んでないから男を持ってこいとも言っていて……」
「ごめん、やっぱり遠慮させてもらってもいいかな。なんだかとってもこわいんだ」
犬の嗅覚ばりに今の言葉は危険を感じた。危険が危ないくらいに危ない台詞だった。今どれくらい「危」を含む言葉を使った?
「いっ、いえ……別に他意はないと思います。そもそも人とも関わってないんでそんな言葉が出たんだと……。私ですら最近は顔を合わせてなかったので」
だとしても男を持ってこいは寒気を覚えるよ。なるほど、これが性別逆になると耳に覚えがある言葉やシチュになるんだな。じゃあセクハラじゃないか。
「せいぜい、お母さんと、し、塩沢さんくらいにしか会ってないはずで……」
一瞬塩沢さんの名前出すのを躊躇ったな。今。……やはりこの間のコスプレ騒動は薬になっているようだ。
「と、とりあえず、考えておいてだけはくれませんか? 結構お父さんノリノリで……先日の野球観戦のときの途中で塩沢さんに捕まったからあまり八色さんと話せなくて消化不良だったみたいですし……」
……ああ、そういえばそんなシーンもありましたね。
「ま、まあ……考えてはおく、けど……まさか僕とお父さんのふたりってことはないよね?」
「ひ、日付が揃えば私も行きますよ……?」
裏を返せば日付が揃わなかったら僕はあなたのお父さんとふたりきりでキャンプに行かされるんですか? 何その半分罰ゲームみたいな制度。いや、別に章さんが嫌いとか苦手なわけではなく(本当に)、でも実際のところバイト先の後輩のお父さんとサシで出かけるのは普通に気まずい。
日付揃えるためなら追加出勤でも他のスタッフに土下座でもなんでもするんでそれだけは回避させてください。
「……オーケー、わかった。わかったからとりあえず井野さんも頑張って日付揃えるようにして……。さすがに井野さん抜きでお父さんと泊まりで出かけるのは僕の胃に穴が開く」
井野さんがいたとしても胃液が逆流くらいはしそうですけど。色々な意味で。穴が開くよりはマシ、だと思いたい……。知らないけど。医学的にどっちがマシかなんて。っていうかどっちも嫌だけど。
「は、はい……わ、わかりました……では、私、そろそろ家に着くので……」
「うん、夜遅くにごめんね……じゃあ、お疲れ様……」
「お疲れ様です……」
そうして電話を切ったタイミング、僕も駅と家の中間地点、街灯の光しかない暗い夜道を歩いていた。
「……いいや、どうせ水上さんにはそのうちバレる。隠す努力をするだけ無駄だ」
今までそれをやって面倒なことになったんだ。諦めたほうが無難だろう。多分。
それにしても……キャンプ、かあ……。小学生のときに父親に連れて行ってもらった以来かな……。美穂が生まれてからちょっとくらいの頃。
……別にキャンプ嫌いなわけではないからいいんだけどさ……。まさかバイト先の女の子のお父さんに連れられて行くことになるとは思わなかったけど……。
「……僕が持っている寝袋が本来の用途で役に立つときがくるとは」
ふと、家の押し入れに眠っている円柱の形をした物体に思いを巡らせた僕は、内心苦笑いを浮かべて不思議な巡りあわせを感じていた。
次の出勤日。セール後の棚の復旧も大体完了して、完全に平常運転のシフトが戻っていた。この日は僕と井野さんと小千谷さんの三人。久々に小千谷さんをスタッフルームに幽閉して家電の作業にあたってもらい、最近滞り気味だった本の加工を僕と井野さんで進めていた。補充にウェイトを置いていたからね、仕方ないと言えば仕方ない。
「……そういえば、次の年末年始のセールって井野さん出勤できるの?」
セールが終わればまた次のセールのことを考えてしまう。悲しい性だ。しかし聞かないといけないこと。僕はラベルを本に貼りつけながら井野さんに聞いた。
「……ど、どうでしょう……。センター試験がすぐにあるんで、さすがにその期間はお休みを貰いたいなあとは……思っていて……」
「そうだよね……センターあるし、それ終わったらすぐに私立と二次試験だもんなあ……」
ついこの間、中番の先輩に次のセールは一線を退くみたいなことを言ったけど、あてにしている井野さんは受験生だ。年末年始はさすがにバイトどころではないだろう。
「店長さんにはもう話していて、いいよとは言われているんですけど……」
「まあ、宮内さんなら駄目とは言わないでしょう……。待てよ。浦佐もその期間休みを取るのか……?」
一応浦佐も受験生。不真面目な受験生だ。センターを受けるかどうかは知らないけど、私大の一般入試は受けるだろう。
「う、浦佐さんも試験のある週は休みを取るって言ってましたよ……」
「……じゃあ、その間は夜番三人ってことか」
「……で、ですね……。す、すみません……」
「いや、それは井野さんが謝ることではないよ……。宮内さんのことだ、他店からヘルプを頼むとか、今のうちに新人さん入れてシフトを厚くするとか考えている、はずだから」
不安だから今度会ったとき聞いてみよう。三人で回してねとか言われたらストライキ起こす自信がある。
「……よし、井野さん。休み取る前に僕がやってるフロコンそろそろ本格的に覚えようか」
「えっ、えっ?」
「……大丈夫、水上さんにも教えるつもりでいるから」
「だ、大丈夫な理由がわからないです……。それに、わ、私はフロコンなんて柄じゃ……」
「……知ってる? 時給が上がる一番簡単な方法。それは、フロコンをすることなんだよ」
困惑する井野さんに悪魔の囁きのように説得をする。嫌と言っても教えるけど。
そんな雑談をしていると、ふと、
「あ、円に八色君じゃないか……今日は一緒にカウンターに入っているんだね」
……最近ホットな井野さんのお父様がとても機嫌よさそうに僕らの前に現れた。
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