第115話 あーちゃんの知り合い

 津久田・八色お見合い騒動もとりあえず収束し、小千谷さんも無事股間の痛みから復帰して出勤するようになった。

「……この世の終わりかってくらい佳織に蹴られた……めっちゃ痛かったぜ……八色、潰れに潰れると、起き上がれなくなるぜ」

 っていうもはや武勇伝に近いものと化した経験談も聞かされたり。


「……あの後どれだけ怒らせるようなこと言ったんですか……」

「ん? じゃあ何、こっちゃんはもう童貞じゃないの? って聞かれたから、風俗行ってもう捨てたって話したら十五分くらい蹴られた」

「いや、もういいです……殺されなかっただけ感謝したほうがいいですよ、小千谷さん」

「ああ、しばらくは……佳織に絶対服従しておいたほうが身のためだ……。さすがに去勢はしたくねえよ俺は」


 ガクガクブルブルと震える小千谷さん。夕礼前に飲む缶コーヒーを持つ手も、心なしか頼りない。


「……それで、津久田さんとは結局どうなったんですか?」

「どうもなってないけど? っていうか、散々股間蹴った後、じゃあ付き合いましょうってなるか? 普通。それ言われたらサイコパス認定するけどな」

 ……まあ正論っちゃ正論だけど、そもそもの原因を作ったのは百パーセント小千谷さんだからなんとも言えない。


 ということは、まだゴールインしていないのか……このふたりは。不憫だ。ことごとく津久田さんが不憫で仕方ない。なんでもいいからさっさと付き合えよ……。でないとまた津久田さんのお父さんがお見合い企画しちゃいますよ。


 というような話をしていると、今日出勤の水上さんと井野さんが同時にスタッフルームに入ってきた。井野さんに関しては少し表情が硬くなっている。


「おっ、どうした井野ちゃん。炎上している売り場を見て怖気づいたか?」

「いっ、いえっ。……ま、まあ、忙しそうだなあとは思いましたけど……もう慣れちゃいましたから」

「そうだよなー。あとセールも二日で終わりだからなあ。長かったよ、地獄のようなセール期間が」


 そう。お見合い騒動が終わって今はお盆真っただ中。つまり、本が二十パーセントオフのセール期間中というわけだ。僕と小千谷さんはもう既に出勤をして休憩に入っているタイミング。売り場が地獄絵図になっているのは体験済みだ。……できればそのベータ版だけで終わって欲しいのだけど、そうも言っていられないようだ。


「ま、つべこべ言ってもしょうがないし、今日も気張っていこうぜ」

「……珍しく最年長らしいこと言った。小千谷さん」

「あ、なんだよその言いかた、普段俺が年上っぽくないみたいな」

 ……精神年齢は一番年下って思ってますから、僕。


 そうこうしているうちにハイになっている宮内さんもスタッフルームに戻ってきて、簡略化した夕礼が行われた。すぐに売り場に行かないとだからね。

 そうして、夜番四人も燃えかけの店内へと出動をしていった。


 本のセールということもあって、勿論メインに売れていくのは本ばっかりだ。他の小売業でどういう表現をするかは知らないけど、ここのお店では商品の陳列状況を「棚がキツキツ→棚が緩い→棚が倒れている→棚に穴が開いている→棚がガタガタ」の概ね六段階で話すことが多い。


 じゃあ今はどうなんだって話なんだけど、最上級の形容が当てはまると思う。

 棚が死んでいる。

 ……いやあ、ほんとに物凄い売れ行きですねえ。泣いて喜んじゃうよ僕。


 さて、この絶望的な状況を早くどうにかしないと、売上に響いてしまう。幸い、補充するものはセール前に僕らがひいこら言いながら用意した。その本を棚にどんどん突っ込んでいけばいいだけだ。単純な作業量は多いけどね。


「さ、とりあえず漫画の棚からどうにかしていこうか、水上さん」

「はい……わかりました」

 このタイミングで補充に出ているのは僕と水上さんだけだ。あとこれから休憩から戻ってくるはずの中番さんふたりの四名体制。レジは小千谷さんと井野さんと、中番ひとり。この配置。


 売り場に設置してある三段カートに乗せてあったコミックの山を抱えて、僕はお客さんの間を縫うようにして移動を始めた。セールあるあるのひとつとして、コミックの百円コーナーが大混雑する。……まあ、立ち読みなんですけどね。ええ。僕はあまり立ち読みは好きじゃない。店員のなかでも好き嫌いがわかれるところだけど。まあ、嫌いだって言う人は聞くけど、好きって言う人は聞かない。せいぜい気にしない、くらいか。


 高いほう(三六〇円とか)のコミックにはシュリンク包装をしているので立ち読みはできず、それほどお客さんは集まらない。……だからこそちょっとげんなりとするんだけどね。


 まあ、グダグダ言うのもほどほどにしておいて、必殺の「横失礼しまーす」で黙々と補充をし始める。いいんだ、立ち読み客は僕のことを邪魔としか思っていないだろうけど、ガタガタに倒れた棚を埋めるためだ。倒れた棚って、売上が鈍る原因にもなるし、安全性の問題もあるから早く解決しないといけないし。


 例えば一列五十冊入る棚に十冊しか入っていないとすると、どんな感じに本が並ぶだろうか、ってことを想像してもらえれば、どれだけ危ないかわかってもらえると思う。少しバランスが変わるだけで本が雪崩を起こすから本当に危ない。

 さ、だからこそとっととこの補充物を棚に入れないと……。


 平台に置いた漫画を何冊か手に取ってさあこれからってときだ。

「あの、すみませーん」

 近くにいた僕とほぼ同年代らしき男性客に、声をかけられた。

 それに反応した僕は、持っていた本をまた置いて、男性のもとに近寄る。


「これってありますか……?」

 男性は僕に一冊の新書が映ったスクリーンショットを見せてきた。この手の在庫確認は一日出勤すれば平均して三から五件くらいは回ってくる。一度も受けないことのほうがむしろ難しい。


「あー、はい、これですね、でしたら──」

 いつものことなので僕はお客さんを新書のコーナーに案内しようとすると、


「八色さん、補充物が足りなさすぎて全然棚が直らなくて……え?」

「……え?」

 僕が対応中ってことを知らなかった水上さんが、そう話しかけてきた。まあ、これもたまに起きること。


 ただ、水上さんだけでなく、後をついていたお客さんまで驚いていたのはなかなか珍しい。

「……も、もしかして……あーちゃん?」

 ん? あーちゃん?


「……な、なんで、ここに……」

 気まずそうに目を合わせている水上さんと男性客。……あれ? もしかして、お知り合い?


 あーちゃんって……ああ、なるほど、愛唯だからあーちゃんか。普段名前で呼ばないから一瞬何のことかわからなくなった。


 ざっと十五秒くらいふたりがフリーズしていると、何かが弾けたように水上さんが、

「すっ、すみません、ちょっとお茶飲んできますっ」

 それだけ言い残して僕と男性の側から小走りで離れていった。


「……えーっと、とりあえず、先に本探しましょうか?」

「はっ、はい。す、すみません」

 さすがにこんな経験は初めてだよ。僕も気まずい。……あんな水上さん、珍しいな……。

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