第94話 恐怖の水上砲
「お、お見合いって……そんなの……ありですか?」
切れた電話を呆然とぶら下げて、エスカレーターの入口で立ち止まってしまう。そりゃあそうだよね。二十二年彼女ができたことのない人に、いきなりお見合いをしろって。しかも、一週間後で、相手はバイト先の常連のお嬢様。さらにはその人には好きな人がいることも把握済みだし、なんだったらお見合いを嫌がっているのも知っている。
……何? この初めっから僕にメリットがひとつもないお見合いは。なんだったらデメリットしかないよ、これ?
得するの親父だけじゃん。美穂と僕を引きはがしたい意図を持つ。……っていうか、自分の娘を手に入れるために息子にお見合いをさせる父親って……。
津久田さんのお父さんもお父さんだよ。何故に山梨の関連企業の一部長と自分の娘の話で盛り上がって僕を紹介しろって流れになる。まったく、意味がわからないよ。
いやね? 百歩譲って僕が医学部生とか、超有名な私立大に通うとか、そういう奴だったらまだわかるよ?
僕の通う大学、平々凡々としたごく普通の、なんなら地元でも少し探せば似た偏差値帯の大学あるところだからね? ……全部国公立大だけど。
釣り合う釣り合わない以前に、同じシーソーに乗ることすらあり得ないふたりのはずなんですけど、そこらへんいかがお考えでしょうか社長さん。いや、僕社員じゃないけど。
それだけじゃない。こんなことが水上さんに知れてみろ。「私のものにならないなら……そんな八色さん、いらない」とか真顔で平気で言うような子だぞ、下手すりゃ包丁で刺されて僕が死ぬ。もしくは「私の邪魔をするような方々には、制裁を加えないといけませんね……」とかなんとか言って、津久田さんや僕の父親の会社の極秘情報掴んでマスコミにリークしたりしそう。春文砲みたいに。今のうちに社内浄化したほうがいいかもですよー、津久田グループさーん。
どっちに転がっても地獄にしかならない。
「……と、とりあえずお店に行かないと……出勤しないと……」
ひとまず、早いところ津久田さん……佳織さんのほうね、に言わないと。あと、お店の人には絶対にバレないようにしないと。フラグとかではなく。
僕はエスカレーターを下りながら、津久田さんとのトーク画面を呼び出して、
八色 太地:津久田さん、お見合いの話なんですけど
八色 太地:相手、僕らしいです
とだけ送って反応を待つことにした。
「お疲れ様です……」
スタッフルームに入ると、いつもの出勤とは違い、朝番の方の休憩時間と被っていて、いつもはそれほど関わることのない顔が何人か並んでいる。
「おー、八色っちゃんお疲れー。今日はロングなんだ」
「ちょっと用事があって新宿まで出たんで……暇なのでこの時間から働こうかなあって」
朝番は夜よりも比較的年齢層は高く、他に仕事をしている人や、専門学校に通っている人だったり。バリエーションに富んでいるし、その分濃い人が多い。……ただでさえ夜があれだけ濃いのに、それ以上にカオスなのが朝番だ。……だからあまりロングシフトには入らないんだけどね……。
「聞いたぞー、八色っちゃん。最近モテモテなんだってー?」
まだ着替えるには早かったので、空いている適当な椅子に座ると、男のノリが軽い先輩に肩に手を回されて絡まれる。
「も、モテモテって……誰から聞いたんですか」
「誰って、こっちゃんだよこっちゃん」
「ああ、小千谷さんですか……」
僕の八色っちゃんもそうだけど、勤務帯によって貰うあだ名が違うこともしばしば。小千谷さんは朝の人たちにはこっちゃんと呼ばれている。まあ、夜番では最年長だから、あだ名では呼びにくいよね。……そういう意味では、浦佐はかなり図太いことになるけど。
あんにゃろう、軽々しく人の情報広めやがって。また津久田さんにお仕置きを外注しないと駄目なのかな?
「ってほら、噂をすればこっちゃんお店に来た。おー、お疲れこっちゃん。えらく機嫌がいいな。サッカーくじでも当てたのか?」
「ちーっすぐっさん……って八色もいんのか、珍しいな、この時間にいるなんて。いやいや、そんなんじゃないよ」
「ならなんだよ、あれか? こっちゃんにもとうとう春が来たか?」
「……いやー、朝起きたら佳織からラインが来ててさ、一瞬ドキッとしたんだけど『今日から一週間海外出張に同行することになったから連絡取れない』ってあったんだよー。つまり、一週間俺は自由ってこと」
……何その都合いい展開。っていうことは、さっきの僕のラインも見られていないってこと?
確認するために、再び津久田さんとのトーク画面を開くも、やはり既読はついていない。
一週間ってことは、想像するに、帰国してそのままお見合い、とかそういうスケジュールじゃないでしょうね……。
だとすると、本格的に詰みモードな気がする。お見合いを回避する手段はない。
「ん? どうした八色。めっちゃ汗かいて。玉のように汗出てるぞ? そんなに暑いか?」
今僕が置かれた状況に焦っていると、自然と冷や汗をかいてしまったようで、小千谷さんが心配そうに尋ねてくる。
「い、いえ……全然全然。さっきちょっと小走りしたんで、多分それですね、もう僕着替えてきちゃいますね」
逃げるように更衣室に駆け込むと、スタッフルームでは「でもそっかー、津久田さん海外出張かーしばらくはお店来ないんだ。目の保養にしていたんだけどなー可愛いし」「そうかー? 確かに佳織見た目はいいけど怒ると怖いぜー?」「そりゃ、こっちゃんがいつも適当なことして津久田さん怒らせてるからだろう? あんな可愛い幼馴染持っておいてそりゃねーよ」っていう会話が繰り広げられている。
「可愛いと言えば、ぐっさん聞いた? あの八色に、自分のことをお兄ちゃんと呼ばせている八つ年下の妹がいるって」
「まじ? 八色っちゃんそんな趣味があったんか?」
現場はここか。現行犯で逮捕だなこれ。
僕はちゃっちゃと制服に着替えて、ふたりの輪に飛び込む。
「小千谷さん、あることないこと言いまわさないでくださいよ。呼ばせてなんていません」
「あちゃー、見つかったよ太地お兄ちゃんにー」
「太地お兄ちゃん、これから単行本のピックアップの棚触りたいなあ」
……二十四歳フリーターと、二十六歳フリーターの先輩に太地お兄ちゃんと呼ばれる図。ナニコレ。
「……山口さんはそもそも僕にそれお願いしないでくださいよ。朝フロに言ってください朝フロに。あとおぢさん、今度僕を太地お兄ちゃんと呼んでみてください? 津久田さんにお仕置きを依頼しますからね?」
朝フロとは朝のフロアコントロールのこと。対義語は夜フロ。普段僕がしている。
「ひゃあー、太地お兄ちゃん怖いよお」
「……お仕置き確定ですね。今は連絡つかないみたいなんで、ついてからお願いすることにします」
「設置した地雷を秒で踏み抜くこっちゃんの意気だけは高く評価するよ、俺」
「だろ? やるなって言われたらやりたくなるのが人情ってやつだよな」
あんたが反省しないのはそれが原因か。いや違う。反省は犬に食わせたんだっけ。
「さ、馬鹿話もそこそこに、俺も着替えっかー。いやー、佳織が確実に店に来ないってだけでこんなに清々しい気分になれるなんてなー。今日は仕事がはかどりそうだー」
柄になく鼻歌を紡ぎながら小千谷さんは更衣室に向かい、いそいそと制服に着替え始めていた。
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