第90話 なんでもしますから

 マットレスを窓際に置いて、とりあえず直射日光にさらす。とりあえず水上さんに気づかれないようにノートパソコンのパスワードを変更した。……だって、侵入されたってことは、もう美穂、井野さん、浦佐の三人はいつでも僕のパソコンに入れるってことだからね。……それは非常に困る。


 ……今の大学の受験番号から……、誰も知らないような文字列……。とりあえず、大学の住所の郵便番号とかにしておくか……。

 一時間くらいして、浴室のドアが開け閉めされる音がした。どうやら井野さんがお風呂から上がったみたいだ。既に洗濯は乾燥まで終わっているから、着るものはある。


 しゅんとした表情で、昨日と同じ服を身に纏った井野さんが部屋に戻ってきた。

「……そ、その……あ、あがりました……」

 普段以上におどおどして、何もない部屋の隅に顔を真っ赤にして体育座りをしている。……まあ、そうだよね。小学生低学年でも恥ずかしいし、ましてや高校生になって、しかも他人の家で、さらにさらに男の隣で、かつそれが性癖というもう何をどうやったらこんなコンボができるのってレベルだからね。


 ベッドの骨組みに腰かけている僕、テレビの前に座る水上さん、隅っこで小さくなる井野さん、呑気にまだぐうすか寝ている美穂、浦佐のふたり。

「えっと……そ、その……すみませんでした……」

 井野さんは、チラッと上目を向いて干しているマットレスを見やる。それを確認してか、彼女は気まずそうに座ったまま頭を下げた。


「こ、高三にもなって……こんなことして……ぅぅ……」

「いや、僕が酒に酔って井野さんに何かしたのが原因だろうから……。井野さんが気にする必要はないよ」

「ひゃ、そ、それは……む、むしろご褒美みたいなところあったので……べ、別に……」

 ……ご褒美? えーっと……井野さんって、実はマゾ気質だったりする……?


「あっ、あのっ……このお詫びはなんでもしますのでっ、だっ、だからっ、だからっ……」

 伏し目がちな瞳に涙を浮かべて、井野さんは必死に僕に謝る。

「……な、なんでもって」

「八色さん?」

「すみません」

 なんでもという井野さんの言葉に反応すると、水上さんにキッと睨まれてしまった。


「いいっていいって……たまにはこういう物凄く恥ずかしいことだってあるし、ほぼほぼ僕が悪いみたいなところあるから。む、むしろ謝らないといけないのは僕のほうで──」

 気を取り直して井野さんのほうを向いて、フォローを入れようとすると、大人しい彼女はポロポロと涙を垂直に落としながら、


「いっ、いえっ……八色さんがいない間にベッドに入っていた私が悪いんです……。そ、それに八色さんが酔って家に帰ったのも……私たちのせいですし……」

 ……あー、やっぱりベッドに入っていたんですね。うん、まあいいんですけど。浦佐も遠慮なく入っているからもう。


「ほんとに……その……なんでもするので、ば、バイトだけは辞めないでくださいっ」

「はひ?」

「……八色さんが、バイトを辞める?」

 突然の井野さんの発言に、僕と水上さんは呆けてしまう。なんだなんだ、僕がバイトを辞める? 初耳だぞそれは。


「ちょ、ちょっとどういうことですか八色さん。聞いてませんよ、春まではいるんじゃなかったんですか」

 すぐに水上さんは真顔になって、ベッド(骨組み)に座る僕にずんずんと近寄る。

「まっ、待って待って水上さん、近い近い。そ、それに誤解だ、誤解だよきっと、辞めるなんて話僕はしてないっ」


 両手を体の前に開いて、接近する水上さんのことを制止する。……これ、普通に春、退職するとき大丈夫かなあ。

「で、でも……昨日八色さん、家に帰ってから『もう嫌だ』とか、『バイト辞めて実家に帰りたい』とかおっしゃって……」


 ……うわあ、昨日の僕、酒入ってめっちゃ弱音吐いたんだ……。まあ……心理状態は最悪だったからね。

「こ、これからは、八色さんに迷惑かけないようにちゃんとするんで……も、もう勝手にパソコンやお部屋を漁ったりもしないので……な、なんでもしますから、バイトを辞めるのだけは……嫌なんです……」


 ……おう、それはむしろ当たり前だと思うんだけどなあ。あと、真面目に働くと、ボケの頻度を減らすが抜けているよ? 蓄積疲労の割合はそっちのほうが多いからね?

「そ、そうですよ八色さんっ、辞めるなんて駄目ですよ、まだ色々やってないこと……こほん、八色さんが辞めちゃったらお店が回らなくなっちゃいますし、小千谷さんの手綱を誰が握るんですかっ」

 おーい、本音が漏れてるよー水上さーん。あと、減らして欲しいのそういうところー。


「ははは……一応、来年の春になったら本当に辞めるんだけどなー、大丈夫かなーお店、僕心配だなー」

「……じゃ、じゃあ、まだ八色さんは……辞めないんですか……?」

 体育座りから、僕のいるほうへ両膝両手を床について四つん這いのような形で踏み出した井野さん。顔色はもう完全に不安でいっぱいだ。


「や、辞めるつもりはないよ……?」

「……よ、よかったです……」

「安心しました……」

 僕がそう答えると、ホッとしたように井野さんと水上さんは胸を撫で下ろした。


「ひ、ひとまず、もうこの一連のことに関しては終了、ってことでいい、よね……?」

「は、はい……」

「で、もうこれは交換条件みたいな感じになって悪いんだけど……。僕のパソコンの中身と、今日のことに関しては、お互い秘密にするってことで……」

 井野さんはこくこくと猛スピードで首を縦に振った。


「……水上さんも、それでいいよね?」

「当たり前です。……それに、弱みはばらさないから弱みになるんですよ、八色さん」

 サラッと恐ろしいこと言うのやめてください。……僕、ずーっとこのネタで強請られるのかな……。

 ま、まあこれで解決だな。めでたしめでたし。


「んんー、よく寝たっすー。久し振りにこんなにぐっすり寝たっすねー、やっぱり動画投稿は健康に悪いっすー」

 すると、タイミング良く子供のように爆睡していた浦佐が伸びをして体を起こした。


「あっ、太地センパイー、今度焼肉奢ってくださいっすよー」

 ぱちくりと目を開いて、浦佐と僕の視線が合う。

「……お前、この間ので味を占めたな」

「あはは、何言ってるっすかー、そんなわけないじゃないっすかー。あれ? 円ちゃんお風呂入ったっすか? いいなー、自分も入りたいっすー。でも、着替えとかどうしたっすか?」


「……いいよ、もう入って。洗濯機に乾燥機能ついているからそれでどうにかして」

 浦佐だけ断るのも角が立ちそうなので、しょうがなく僕はいいよと言う。

「美穂ちゃん、美穂ちゃん、起きるっすよ、昨日お風呂入らないまま寝ちゃったっすからお風呂入るっすよ」

「んん……浦佐お姉さん……?」


 いつの間にかふたりは仲良くなったんだ。

 あと、どうでもいいけど、浦佐お姉さんって……。見た目からしてそっち? って気にもなるけど……。

 ……仲良きことはいいことです。はい。

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