第87話 天罰が下りそうです

「……あ、あの八色さん、大丈夫ですか?」

 お店を出て、新宿駅まで向かう途中。ボーっと歩いている僕を心配してか、ちょくちょく水上さんが僕の顔を覗きこむようにして声を掛ける。


「あー、大丈夫なのかなーあははー」

「……こんなにネジが外れた八色さん、初めて見ました……」

 もう何がなんだかな状態のまま、トボトボと歩いていく。


 いつもの中央線のホームに到着して、水上さんと別れた。

「え、えっと……気を確かに持ってくださいね……? で、ではお疲れ様でした……」

「うんー、お疲れー」


 はぁ……帰りたくないなあ……。っていうか、まだ井野さんと浦佐は家にいるのだろうか。なんか、まともな状態で家に帰りたくないなあ……。

 ふと、目線を横にずらして、隣の乗車口に並んでいるサラリーマン風情の男性を視界に捉える。その人も同じように肩をしょんぼりさせて、目線は俯いていて、手にしたスマホを操作する様子は虚ろげだ。


 家に帰りたくないのか、仕事に疲れたのかは知らないけど、同じようにテンションは最低であることに変わりはないだろう。しかも、ここから混む電車に乗り込むのだから。


 少しして、高尾行の快速電車がホームに滑り込んできた。この状態で乗車するのは憚りたくなるほどの乗車率で、けど乗らないわけにはいかないから渋々人でいっぱいの帰りの電車に揺られ始めた。


 ただ、あまりにも元気がないと苦痛でしかない混雑した電車もすぐに終わってしまうもので、気がついたら自宅最寄りの武蔵境駅に到着した。

 改札を出て、ふと目に入ったのは夜道に光るコンビニの姿。


「…………」

 少しくらいなら、いいよね……。

 吸い込まれるようにお店のなかに入っていき、僕はいくつかの買い物を済ませて、人影がまったくない帰り道についた。


 〇


「すぅ……すぅ……」「くふふ……お兄ちゃん……くふふ……」

 時計は午後の十一時をとうに回っていました。もう八色さんが帰って来る頃を過ぎています。一緒にいた浦佐さんと美穂ちゃんは、テーブルの上に顔を伏せて身を寄せ合って眠ってしまっています。


「……これだけ見ると、仲が良い姉妹みたいだね……」

 どっちがお姉さんに見えるかはさて置いて。

 顔の近くには、美穂ちゃんの夏休みの課題に出された数学の問題集と、それに格闘したノートの切れ端。……浦佐さんが中学二年生の数学すら怪しいことを知って、私は不安になりましたけど。


「……それにしても、八色さん、遅いなあ……」

 もうお母さんにはとりあえず「友達」の家に泊まるということを伝えています。浦佐さんも同じ。だから、今ここにいることに問題は何もないのだけど……。


 ふたりの寝息、家主の八色さんがいない部屋。私はベッドに腰かけたまま、八色さんが家に帰ってくるのを待ちます。

「……いつも、ここで……八色さん寝ているんですよね……」

 チラッと目線を横にずらして、起きる気配のないふたりを確認します。


「い、今だったら……」

 それを見てから、ベッドに置かれている枕に顔を埋めて、くんくんと匂いを堪能し始めました。

「はぅ……八色さんの匂い……」


 先日文字通り抱き枕にして眠ってしまったときに覚えてしまったこの香りに、どうやら私ははまってしまったみたいです。

「……癖になっちゃいます……」

 ぎゅうっと枕を強く抱きしめて、体をよじらせます。そのまま夢中になってベッドの上でぐるぐるしていると、私は気づきませんでした。取引に夢中になって毒薬を飲まされた名探偵の要領ですね。


「ただいまあ……って、あれえ、井野さん……?」

 その声が聞こえたときにはもう遅かったです。慌てて枕から体を離して起き上がりますけど、部屋にはばっちり八色さんの姿がありました。……顔が真っ赤になった状態で、ですけど。


「なんで僕のベッドで寝ているのお……?」

 あ、あれ……? ちょっと呂律が回っていない? ……あ、八色さんの右手のレジ袋、空き缶が何個か入っている。……ちょっとだけお酒の匂いもします。

「……まあいいやあ、寝ちゃおーっと」


 八色さん、どこかでお酒買って飲んで来たんだ。それで酔って家に帰ったんだ。ゴミが入った袋をテーブルに放り投げて、バタンと私がいるベッドに倒れ込んできます。

「え、えっ──ひゃうん……」


 けど、私を避けてベッドに倒れるほど意識はちゃんとしていないみたいで、八色さんはなんと私と重なるような形で横になってしまいました。

「……なんか、今日のベッドは温かいし、なんか柔らかいなあ……へへへ……」

 それに、八色さんは私のことを抱き枕か何かと勘違いしているようで、私のお腹に手を回すようにして、むにゃむにゃとあやふやにひとりごとを呟き続けます。


「やややややいろさん……?」

 私は急な出来事に驚いてしまって、うまく八色さんの腕から抜け出すことができません。酔っているから、成人男性とはいえ、離れることは難しくないはずなのに。


「……もう、僕疲れたよ……バイト辞めて実家帰りたいなあ……」

「ひゃ、ひゃい⁉」

 や、八色さんがバイト辞めたい……? そ、そんな……。


「真面目に働くのも馬鹿らしくなってきたし……先輩はいつになってもしっかりしてくれないし……後輩も後輩で色々僕のこと弄ぶし……」

 どどどどどうしよう……こっ、このままだと八色さんが仕事辞めて実家に帰っちゃいます……! そ、それは嫌です……! でっ、でもどうすれば……。


「美穂や後輩の女の子には……勝手にパソコン漁られて、AV見られるし……もう上手くやっていける気がしないよ……」

 完全に今日の私のラインのせいだ……! はわわ……ど、どうにかしないと、どうにかしないと……。


「……もう、嫌だなあ……」

 そして、最後にそう言っては、八色さんはさらに私を抱く力を強くします。握った手ひとつぶんくらい隙間があった私と八色さんの距離は、完璧に密着していて、耳元には八色さんの息が吹かれています。

 あの写真、削除したほうがいいかなあ……。朝になったら、八色さんに謝らないと……。


「……あ、あれ……?」

 そう思って、私は一度ベッドから起き上がろうとしますが、八色さんの腕のせいで、起きることができません。それに、無理に動くと、私の胸と八色さんの腕がぶつかってしまいます……。


 この状態に問題はあるんですが、それ以上にもっと問題なことがありまして……。

 じ、実は……さっきからお手洗いに行きたくて……。

 こ、このまま八色さんが起きなかったら、私……?

「う、うう……」

 高校生にもなってそれは、恥ずかしすぎます。な、なんとかしないと……。

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