第72話 惑ってるプール

 適当に空いているプールサイドのスペースに、水上さんは用意していたカラフルなビニールシートを引く。

「じゃあ……早速プール、の前に……やっぱりお約束ですよね? これって」

 彼女がカバンから取り出したのは……日焼け止めクリームだ。


「一応事前にある程度は塗っているんですけど、どうしても背中は手が届かないので、お願いしてもいいですか……?」

 魅惑的か蠱惑的こわくてきかと聞かれれば、含みがある笑みを浮かべているぶん蠱惑的と答えたほうがいいような表情で、水上さんは僕に日焼け止めを手渡す。これはどう見ても怪しいしたぶらかす意図があるだろ。


「……あの、さすがにそれはハードルが高いというか」

 もうビニールシートの上にうつ伏せになっている彼女に、困惑しつつ僕は言う。

「迷惑でしたか……? それとも、日に焼けたほうが好みなら、別にそれでもいいですけど……その場合、背中だけ焼けた私が完成しますが、それでもいいですか?」


「いっ、いや、別に好みとかそういうことではなくて……」

 あまり日に焼けた子得意じゃないし……。見た目云々の話ではなく、焼けている子ってアクティブなイメージが強い。……俗に言うトップカースト系の人は苦手というか、なんというかなので、ということになる。


「なら、いいですよね? ……それとも、何かいやらしいことでも考えてます? 実は、野外のほうが……ということなら」

「普通に犯罪だし内定取り消しどころの話じゃなくなるしそういう趣味もないから安心していいよああ仕方ないなあ塗ってあげるよもう」

「……どうもです、さすが八色さん」

 な、なんか……嵌められた気がする。


「はぁ……」

 ため息をつきながらも、僕は右手にクリームを適量出して、無防備にさらされている水上さんの背中に塗り始める。

「ん……八色さん、なんか、触りかた優しいんですね……」

 少しだけ熱を帯びた雪原地帯に入ると、途端水上さんは艶っぽい声を微かに漏らす。……誘惑する気満々じゃないですか。


「……妹によくやらされたから」

「え? ……八色さん、妹さんいたんですか?」

 そういえば、話したことなかったな。

「……八つ年下の妹がひとりいる。今年で確か中学二年生だったっけ……。実家出る前はしょっちゅう構わされたよ。兄離れできない妹というか……。それで海とかプール行ったときによく塗らされたよ」

「へぇ……そうなんですね……ふーん……」


 妹だからいいよね? 別に無駄な着火とかは起きないよね。変な嫉妬とか誘発してないよね?

「……そういえば、浦佐さんたちがお家に入れたみたいですけど……何をされたんですか?」

 やや冷えた声で首をくるっと回して彼女はこちらを向く。


「げ、ゲーム……くらいだよ。特にこれといったことは」

「……ゲーム、くらいですか。へえ……。……あ、もう少し下もお願いします」

「しっ、下って……」

 結構ギリギリのラインですけど……。

「ただ日焼け止めを塗ってもらうだけですよ? 他意はありません。それとも……変なことを考えてたりしますか?」


 僕を幻惑するように目もとを緩め、再度ビニールシートに顔を埋める。

 こ、これは……不惑の態度でいなければならないのか……。

 いいや、とにかく無心だ。何も考えるな。ただ塗るだけ。そうだ。ちょっとお尻に近いところだけど気にしたら負けだ。こっちにその気があると踏まれたらますます水上さんは攻めてくるのだから。気にしない気にしない。


 蠱惑、魅惑、困惑、迷惑、誘惑、幻惑、不惑……。めっちゃ惑ってるな……。

 あとは疑惑あたりが出てくればある程度は出そろうかな……? そうかも。


「んんっ……で、でも……慣れているだけあってやっぱ上手ですね……八色さん」

 ……無駄に湿っぽい声を出さないで欲しいです。

「と、とりあえずこれでいいかと……思います……あ、ありがとうございます」

「……それはどうもです」

「……もしかして、井野さんや浦佐さんといった、年下の女の子に懐かれているのって、その妹さんの影響だったり……します?」


 うつ伏せから体を起こして、これまた準備よく凍らせていたスポーツドリンクを口に含んでいる水上さん。……ほんとそつのない用意だよね。

「どうだろうね。……まあ、僕は慣れているけど」

 というか、水上さんも年下ですからね? 二歳差あるからね?


「あ、八色さんは日焼け止めいいんですか? あれでしたら、私もやりますけど」

「いや……僕、焼けにくい体質みたいで……。大丈夫だよ」

 これは本当だ。なんて言うといつも僕が嘘をついているみたいになるなあ。これも、本当だ。

「今、サラッと世の女の子のほとんどを敵に回す発言をしましたね八色さん」

 シートに座ったままの僕をジッと見下ろしながら、水上さんは目を細めてそう言う。


「太りにくい、焼けにくいは気軽に言ったら駄目ですよ八色さん。それのために努力している子をげんなりさせますから」

 少しだけ頬に空気をためては、彼女はさらに続けた。

「もしかして……水上さんもそのクチ?」


「……陸上辞めて以来体形維持するの結構苦労しているんですよ? 機会さえあれば近所を走るようにはしているんですけど」

「……それは失礼しました」

「わかればいいんです。じゃあ、そろそろプール行きましょうか」

 一度ジャブは挟まれたものの、とりあえず無事にプールに入ることになった……。のはいいけど。


「……ごめん、水上さん。もしかして……泳げなかったりする?」

 流れるプールにゴムボートに乗りながら一緒に流されているとき。ボートから落水した水上さんの反応を見て、僕はそうなのではないかと推測を立てた。

 だって……腰くらいの水深なのに、水に顔ついた瞬間手足をばたつかせたものだから。

 沈みかけた彼女の手を取ってボートに上げて、僕はそう尋ねた。


「……私、専門は陸なんて、水はちょっと」

「じゃあなんで僕をプールに連れたの……?」

「……だ、だって……プール行けたら楽しいかなあって……思ったので……」

 明るい色の髪の毛から水を滴らせながら、恥ずかしそうに水上さんは答える。

「……そ、そうですか」


 無邪気にもほどがありませんか? たまにこうやって年不相応にはしゃぐのギャップになるんでやめてもらっていいですかね……。

 この間僕を追い回した運動能力を持つ水上さんにも、苦手なものがあるのか……。


 暑さのせいか、それとも別の理由かはわからないけど、水上さんは水を被ったにも関わらず顔を上気させて、ゴムボートに乗ったまま流れるプールにひたすら流されていた。そんな顔されると僕もつられて恥ずかしいです。

 これ……波のプールとかウォータースライダーとか行ったらもしや溺れるのでは……?

 危ないからやめておこう……うん。

 そう思ったひとときだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る