第71話 この世に破れない鍵なんてないんですよ

 翌日。まだ少し残る浦佐の残り香とともに(こういう言いかたすると意味深だな)一夜を明かし、目が覚めたのは揺れるカーテンの隙間から覗く陽の香りに当てられて……と、国文学専攻らしく言ってみたいのだけど、そうもいかない。というか専門古典で現代文学じゃないし。


 真っ暗な視界を開いてぼやける景色をこすってみると、誰もいないはずの部屋に物音がする。

「……あ、起きました? 八色さん」

 起きるなり、授業の教科書をペラペラとめくっている水上さんと目が合う。

「おはようございます。目覚めのコーヒーはいかがですか?」

 …………。


「ごめん、どうやって家に入ったの? 鍵かかってなかった?」

「いえ、ちゃんとかかってましたよ?」

 そんな当たり前のことを言うみたいに返さないで欲しい。鍵かかかっていたのにどうしてあなたは家のなかにいる。


「……知ってますか? この世に、破れない鍵なんてないんですよ?」

 密室専門の推理ドラマみたいな迷言を吐くな。

 あと、お色気じゃなきゃいいみたいな思考やめてもらっていいですか? 普通にこれ犯罪ですよ? もろ不法侵入。


「一応希望的観測もこめて質問するけど、合鍵作ったの?」

「企業秘密です」

 ……理解しました、ピッキングしたんですね。住所漏らす奴といい不法侵入する奴といい。なんなんだこの店のバイトは。


「なんでもいいけど……何も言わずに家には入らないで欲しいというか……」

 これで脱いでたら百二十パーセント通報する。

「……まあなんでもいいや。もう……」

 考えるのはやめにしよう。考えたらキリがない。


「それで……今日はどこに行くの?」

 荷物を見ると、まあそれなりの量を抱えている。

「……やっぱり、夏と言えば……なところですよ。待ち合わせを家にした理由もありますけど」

「……ん?」

「八色さん。水着はお持ちですか?」

 思ひ知りました。


「……ま、まああるはあるけど……」

「なら話は早いです。やっぱり、夏と言えばプールですよね?」

 満面の笑みで言う彼女は、カバンのなかにしまっている自分の水着を僅かに覗かせる。


「……そりゃ、まあ」

「この間ついて行った遊園地にもプールはありますけど、続けて同じところに行くのも芸がないので、別のところに行こうと思うんですが、どうですか?」

 デートの計画を立てることに関しては定評のある水上さんだから、基本的には一任しますよ。


「ま、まあいいけど……」

「では決まりですね。そうとなれば早いうちに出発しちゃいましょう。さ、支度してくださいっ、八色さん」

 と言われて、ボサボサの寝癖が残った髪を連れ、僕はポリポリと洗面所に向かっていった。……とりあえずまともなプラン立てているのがなんか悔しいんだよなあ……。日頃の行いと偏見だけど、某静岡県にある大人のミュージアムに行きましょうとか、ちょっとそこで休憩していきませんかとか言い出しそうだからね。……熱海なんて、電車ですぐだし。

 いや……とりあえずまともな案でほんとよかった。不法侵入はまともではないけどね。


 水上さんが行き先に指定したのは、武蔵境から電車で一時間ほどにあるこれまた有名な某遊園地。今回は中央線ではなく、私鉄を乗り継いでいく。そのほうが電車代安いんだ。


 途中十分歩く乗り換えも挟み、最後にはバスにも乗車してたどり着いたプール。

「では、着替え終わったら建物の前で集合ってことで、よろしくです」

「……り、了解です」

 更衣室の前で一旦別れ、僕は男子更衣室に。平日の昼ということもあり、お客さんの数は少なめだ。これが、小学校の夏休みと被ったりすると大変なことになっているのだろうけど。


 ……あれ? っていうか、水上さん、今日は授業ない日なのか……? 全休一年生のうちから作れたのか……?

 どこかチラつく「サボり」の三文字を頭に思い浮かべつつ、シャツからパンツまで全部脱いで、一年生のときに行った以来の水着を履く。ごく普通の、サーフパンツ。


 周りのお兄さんたちはなんかめっちゃ筋肉質でマッチョな人が多く、しかも程よく日に焼けている。それに引き換え僕と言えば……太ってもいなければ痩せてもいない。目立つほどお腹は出ていないけど、つまもうと思えばつまめるくらいの脂肪は溜まってしまっている。……運動しなくなった大学生の末路は大抵こうだよ。


 そんな劣等感を片手に抱えて、夏の陽射しが強い屋外に出た。蒸していて、かつ肌が痛くなるような日光の強さは正直上半身裸の今のほうがより感じる。当たり前だけど。

 うう……立っているだけで汗が出てくる。暑い……今日何度だっけ。三十度は超えるって言っていた気が……。スマホはカバンのなかにしまったから出すの面倒だし……。

 そんなことを考えて十分ほど。


「お待たせしました……八色さん」

 声だけ聞けば純粋に美しいと思える高いソプラノが、僕の耳に入った。

「い、いやぜんぜ──」

 それに反応して、暑さにうなだれていた視線を上げると、僕はその姿に思わず息をのんでしまう。


 巷によく言う、チクショウ、太陽が眩しいぜ、とはこのときに使うのだと思う。

 らしくビキニタイプの水着でまあまあ攻めた水上さん。水色一色で、胸元にワンポイント的に花柄の模様が彩られていて、魅惑的な体のラインを下ると、健康的な白い肌に一点だけ沈むくぼみに、両サイドを結ぶ形の水着。陽射し対策か、前は開いたままのラッシュガードもそれにひとつアクセントを加えていて、なかなかにそそるというか。


「──ん……そんなこと……ないけど……」

 一度襲われたときに全裸の姿を見ているとは言え、これは……なんか、破壊力があるというか。

「ふふ、どうされたんですか? 口ごもっちゃって」

「……そ、それは別に……ただ……その……」

 やや意地悪い笑みを浮かべた水上さんは、僕に続きを促す。

「その?」


「……い、いいなあって思っただけ」

 彼女はそれを聞いて満足そうに口元を押さえて微笑んでは、

「……それは、よかったです。新しく買った甲斐がありました。……これも津久田さんのおかげですね」

 ここにも一枚噛んでいる津久田さん……。僕が意図しない形で井野さんをプロデュースしたように、津久田さんも水上さんをプロデュースしているんでしょうか……。


 ずるい……。襲ったり不法侵入したり駅で待ち伏せしたりするのに、こういうときはきちんと魅力的なことしてくるからずるい。

 周りのお兄さんたちも、水上さんの姿に見とれているようで、周りからひそひそ声が聞こえてくる。……最後には「なんだ、連れがいるのかよ」で残念そうに締められているけど。


 繰り返しになるがもう一度言おうと思う。……太陽が眩しいぜ。

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