第64話 新宿店の病んだ日常

「……お、お疲れ様です……」

 指相撲の騒ぎから数日。また私の次のシフトがやってきました。この日は私と、水上さん、あと小千谷さんです。

 またこの前のような混沌とした空間ができるのだろうかと少しビクビクしながらスタッフルームに入ると、しかし今日は至って見た目は普通の空気でした。


「ん、井野ちゃんお疲れー」

「……お疲れ様です」

 小千谷さんはスマホ片手缶コーヒー片手にのんびりしているし、水上さんも気難しい顔でスマホとにらめっこをしています。


 ……水上さんはそんなにボケを量産する方ではないので、今日は安心できるかもしれません。小千谷さんも単独では何もしないですし。

 ひとまずほっと一息つきながら一度ふたりから目線を切って、ロッカーに荷物をしまいます。そしてとりあえず席に座ろうと視線を戻すと……。


「……え」

 さっきまで普通だったはずが、たったこの一瞬で水上さんの周りがどこか物々しい空気が流れている。

「……これでもう三日も会ってないことになる……八色さんの顔見たいなあまた家に行こうかなでも今度はさすがに怒られそうだしなあ……」

 ぼそぼそと何やら不穏なことを呟いている水上さん。


「……あと、この間こっそり録音しておいたのも聞かないと……わざとスマホ忘れたの、気づいてないみたいだったし……」

 え、え……? 録音? わざと……? 忘れた……?

 頭の上に「?」マークが三個くらい生まれながら、私は空いている椅子に座ります。水上さんのひとりごとに少しの疑問を抱きながら、私もスマホで読みかけにしているWeb漫画の続きを読み始めます。ちょうど保健室のシーンで止まっていたので、ここからいいところなんです。


「……お、まじか、この回の投票率偏ってんなあ、これワンチャン大穴張れば大儲けできるんじゃ……」

 すると、今度は小千谷さんからややねっとりとした声が微かに聞こえてきます。

「20%だけどここホームチームが勝つのはありえそうだし、他も狂ってもおかしくない……。トリプルみっつ重ねても……うひょー、予想配当金五万円か、これはチャンスか?」

 またギャンブルのことでも考えているのでしょうか、目の色が「¥」マークに染まっています。


「……これをみっつ買えば、六万の賭けに対して配当が十五万……なかなかに美味しい回になりそうだ……ぐへへ……へへへ……」

「……まだ録音頭の一時間しか聞けてないし……もう少ししたら溜めた分を発散する音が聞こえたり……ふふ、うふふ……」

 すみません、さっきの言葉撤回します。やっぱり単独でも危ないです。怪しいひとりごとを両サイドから聞かされるのは、それなりに大変です……。


 あ……攻め側の男子が受けの男子をベッドに押し倒した……。

「……はう……あ」

 いけないいけない、あまりの尊さに鼻血が……。ティッシュティッシュ……。

 ポケットにしまっていたティッシュを数枚取りながら、スマホの画面をスクロールしていくと、今度はその勢いのまま濃厚なキスをし始めます。


「……ひぃん……」

「十五万、十五万……」

「録音……録音……」

「みんなー、お疲れ様―、あれ? みんなどうしたのお? ブツブツひとりごと言ったり、鼻血出したり。あ、井野さんもしかしてまたいいBL漫画見つけた? 今度ワタシにも教えてちょーだい?」

 とまあ、そういったようにして今日もまた一日が始まりました。


 八色さんがいない間のフロアコントロールは一時的に小千谷さんか私で回すことになりました。通常時は八色さんか小千谷さんで回転させているのですけど、小千谷さんも毎日いるわけではないので、私もその輪に入ることに。


 ただ、フロコンの仕事ってなかなかに頭を使います。そもそも私が一番後輩で一番年下なのに他の先輩方に配置を指示したり補充の流れを指示したりってだけで気苦労が激しいですし、カウンターが忙しくなってしまったときの解決方法も考えないといけないですし……。


 これを出勤する毎日やっている八色さんって……。

 と、休憩前をひいひい言いながら凌いで、お客さんの数が減るアイドルタイムに入ります。


 休憩後、カウンターに入ったのは私と小千谷さんで、水上さんには補充に出てもらいました。……最近、水上さんと一緒にカウンター入るのが気まずいというか……。

「最近八色とどうなんー? 井野ちゃん」

 ただ、小千谷さんと本の加工をしていると、ふと隣の先輩がおもむろにそう言いだします。


「へっ、へ? や、八色さんとですか……? べ、別に何も」

「えー、そうなん? でもお家に入れたり、一緒に野球見に行ったし、着々と仲は良くなってるんじゃないの?」

 やや適当な口振りだけど、しっかりと作業の手は止めないあたり、さすがベテランさんと言ったところでしょうか。


「八色も見た感じまんざらでもなさそうだし? 押せばどうにかなるんじゃないの?」

「えっ、でっ、でもっ」

「なんやかんやあいつもピュアボーイだからなあ、ちょっと強引に行けばどうにかなるんじゃない?」


 ……一度強引に行きましたけど、それは上手くいかなかったので、きっとそこまで単純ではないんだと思います。

「へえー、強引に行けばどうにかなる、ねえ。こっちゃんもそうしたらうまくいくのかな?」


 なんてことを話していると、買取カウンターには見慣れた常連の津久田さんがいらしてました。腕を組んでどこか不満そうな顔をしています。

「かっ、佳織、いつの間に……」

「今日もお父さんが使わなくなったの持ってきたから、査定よろしくね」

 津久田さんは大きい紙袋をとんと買取カウンターに置いて、小千谷さんを呼びます。


「家電だからこっちゃんねー」

「……ご指名ありがとうございます……」

 スキャナーを握っていた小千谷さんは、渋々といったようにして津久田さんのもとに向かいます。


 その間に、かごいっぱいに漫画を入れた女性のお客さんがレジにやって来たので私はそれを打ち始めます……けど。

 これ……最近発売されたBL漫画ばっかりだ……! しかも私が買い取ったものもたくさん……!

 な、何冊だろ……これだけ売れたってことは、棚に穴空いていてもおかしくないかも……!


 いきなりの出来事に、自然と私のテンションが上がっていきます。古本屋店員あるあるかもしれません。自分が買取したものが売れると少し嬉しいっていうのは。

「あ、ありがとうございましたー」

 ……今度の出勤のとき、このたくさん空いた棚に漫画補充しないと。


 ほくほくして加工場に戻ると、少しゲッソリとした小千谷さんに「井野ちゃん、やけに元気だな」と萎れた声で言われてしまいました。……いけないいけない、落ち着かないと。

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