第63話 八色さんのなつやすみ
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こんにちは。井野です。八色さんが二週間の有給休暇に入って初日のシフトになりました。この日は私と、浦佐さんと、小千谷さんの三人シフトだったのですが、出勤前から早速色々追いつかないことが連発しました。
まず、学校が終わってお店に入ると、先に到着していた浦佐さんと休憩中の小千谷さんが真面目な表情で指相撲をしていました。この時点で何がどうなっているかよくわかりません。
「……え、えっと……何を、しているんですか……?」
「おー井野ちゃん、お疲れー、何って指相撲よ指相撲。見ればわかるっしょ?」
小千谷さんはニカっと笑みを浮かばせては、後ろに結んでいる髪を揺らしてまた目の前にいる浦佐さんのほうを向きます。
「……い、いや、それはそうなんですけど……えっと、なんで指相撲を……?」
その疑問に対しては浦佐さんが険しい顔のまま答えてくれます。
「それはっすね、おぢさんが自分のことをちっこいちっこいってからかってきたからっす」
……それがどうして指相撲に繋がるかが私にはわからないよ……。
「だって、浦佐いつまで経っても背伸びないし、事実だしなあ」
すまし顔で浦佐さんの攻撃から親指を避けている小千谷さんはまだ余裕がありそうです。
「そのまま終わるのは悔しいんで、ゲームで決着をつけようってことになったんすけど」
「携帯ゲームなんて浦佐の得意分野に俺が飛び込むはずもないし、それで指相撲でってことになったんだ。ちなみに負けたほうがジュース一本奢り」
……これは理解できない私の頭が悪いのでしょうか。ゲームで決着ってところまではわかりましたが、そこでなぜ指相撲になったのか。……普通に見た目がシュールです。
「ふんっ、ふんっ、あーちょっと、逃げるなんて卑怯っすよおぢさんっ」
「へん、逃げないで捕まるアホなんているかよっ。あと、お前のちっこい指を俺のゴッドフィンガーには触れさせないぜ」
……あとどこか中二病を発症しかけている人が約一名……。
「わ、私は先に着替えてますね……」
なかなか決着がつきそうにないので、私は更衣室に入って高校の制服からお店の制服に着替えます。
ドアの外からは浦佐さんの鼻息まじりの声や、小千谷さんの軽口が交わされていて、さらにそれに、
「あらあ、虎太郎クンに浦佐さん、仲良く指相撲? いいわねえ」
制服のリボンを解いて、ブラウスを脱いでいる間に店長のそんな声が聞こえてきます。
「ワタシも混ざりたいわねえ」
「え」
ブラウスからポロシャツに着替える前に、少し汗ばんだ体を汗拭きシートで拭いていると、店長までこの指相撲に入りそうな勢いです。
スカートから持ってきていたジーパンに履き替えて、私は更衣室を出ます。すると、
「……ええ?」
あろうことか、小千谷さんの左手と店長の左手が指相撲を始めているではないですか。右手は浦佐さんと対決中です。
「……あ、でもこれはこれで……あり……?」
と、一瞬思考が揺らぎそうになりますが一旦堪えます。待って待って。そもそも店長今勤務中だし、あとちょっとで夕礼始まる時間だし……。
「あっ、あのっ、みなさん、そろそろ着替えないとゆうれ」
「あらやだ、虎太郎クン指相撲強いのね、あっという間に負けちゃったわあ。もう一戦よもう一戦」
「しょうがないっすねー。ほれ、浦佐、捕まえられるものなら捕まえてみな」
「む、むううう、おぢさんのくせにいい」
「…………」
わ、私には到底ツッコミしきれませんよー!
ロッカーにしまっていたスマホから八色さんのトーク画面を呼び出して、私は泣き言を送ります。すぐに既読がついて、返事かやって来たのですが……、
八色 太地:……心を殺すか、自分もアホになるか。その二択だと思うから頑張れ
……その二択究極すぎます。無理です選べません。まだ私は人の心を残したいですし、三人みたいにはっちゃける自信なんてありません。
しかし、それ以降八色さんは既読をつけずに私のラインをスルーしてしまいます。よくよく考えたらお休み中に仕事のこと考えたくないですよね、当然ですよね。で、でも……。
「あっ、いまっ親指手の間に隠したっすね、反則っす反則っ」
「隠してませーん。ずるじゃないよー」
「また負けちゃったわあ、駄目ねえワタシ」
真剣に指相撲に興じる十八歳高校生に、二十四歳フリーター、三十代社員。……どこからどうツッコミを入れたらいいか……。
「え、えっと……えっと……」
「へーい、12345678910、俺の勝ちー」
「む、おっ、大人気ないっすよー、年下の女子高生相手に本気で勝つなんて、情けはないんすか情けはっ」
「別に本気なんて出してないしー、指相撲で負けなしの俺に指相撲で挑んだのが間違いなだけだしー」
「むきー、そっちだって自分の得意分野で勝負してるんじゃないっすか、卑怯っすよー」
「勝ちは勝ちだからなー。今日の休憩時間にでも、コーヒー一本よろー」
ふたりとも……小学生ですか……?
や、八色さん……。いつもこんな感じの状況をひとりで処理し続けていたんですね……。
もう収拾つきません……は、はやく八色さんの休暇終わってくださーい……。
と、これが出勤前のひとときです。これだけで一話分のプロットが仕上がりそうな濃密なギャグになりそう……。
あ、でもこれだとオチが弱いから駄目かなあ……。って、別に、私ギャグ漫画描いているわけじゃないので、そこらへんのことは気にしなくていいんですけど……。
しかし、オチは勝手についてくれました。
小千谷さんと浦佐さんが先に休憩に入った時間、スタッフルームから断末魔の悲鳴のような低い男性の声が聞こえてきました。……ちょっといい声。
ど、どうしたんだろう……。
スタッフルームに繋がる扉の近くで本を補充していた私は、遠いふたりの会話に耳を澄ませます。
「……てめっ、浦佐、コーヒーにコーラ混ぜやがったな、なんだこの地獄みたいな味はっ!」
「……へへー、引っかかったっすねおぢさん、別に既製品を奢れなんて言われないっすから、特製コーヒーをプレゼントするっす、ちゃんと飲み切ってくださいよー」
「こっ、こんにゃろおおお……!」
……あの、おふたり、少し売り場まで聞こえてます。絞ってください……。
「あっ、おぢさん何するっすか、自分のお茶にっ」
「目には目を、歯には歯を、ゲロまずジュースにはゲロまずジュースをって言葉知ってるか……?」
「知らないっすよそんな言葉っ!」
ギャーギャーと騒ぐ声がどんどん大きくなっていって……そして、何か鈍い音がバタバタと立ちます。
「「いだっ。棚から本が……」」
……騒ぎすぎたあまり、きっとコンテナの本が落ちて頭に落下したのでしょう。それ以降、ふたりはようやく大人しくなりました。……兄妹なのかなあ……。
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