第59話 ようこそ地獄の満員電車へ

 ……寝たら死ぬぞと言ったけど、いや、寝られるはずないですよね? ええ。

 かれこれ二十二年彼女ナシ童貞を拗らせた奴が、いきなりこんな状況になっておちおち寝られるはずがないです。


 一応断っておくけど、僕の部屋のベッドはもちのろんシングルだ。人ふたりも一緒に入ればそりゃあぎちぎちにもなる。

 できるだけ触れないように距離を取ろうとするのだけど、僕が逃げるだけ水上さんも近づいてくるのでいたちごっこ。


「…………」

 しかも何が怖いって背中から何か言葉になっていない声が聞こえてくることなんですよねえ。あれ? 大丈夫? 背中から刺されないよね僕? 白いシーツが朝起きたら鮮血に染まっていましたなんてオチは誰も求めていないからね? ……そもそも起きれたら、の話だけど。


「…………」

 あと、なんか妙な衣擦れしているんですけど……。ほんと、後ろ振り返ったらモザイクかかるようなことしてないよね……?

 これじゃあ仮に寝ようと思っても寝られない。

 風通しが良いにも関わらず、額には玉のような汗が浮かんできている。

 ……無だ、とにかく無だ。とにかく背中から襲われないようにだけ気をつけていよう。


「……八色さん……」

 突如、耳元からそんな甘い囁き声が聞こえてくる。

「……ひっ」

 僕はとうとう刺されたかと思ったけど、どうやらそういうわけでもないみたいで……。


「ね、寝息……? 寝言……か……」

 耳をすませば、規則正しく寝息をすーすーと立てている水上さん。音を立てないように振り返ってみると、綺麗に配置された目鼻に、安心しきって力が抜かれている口元、時折膨らんだり萎んだりする鼻は、すやすやと眠っている証左だろうか。


 なんて呑気に観察をしていると、水上さんはさらに僕にすり寄ってきては、両手を僕の腕に絡めてきた。

 ……ね、寝ているんだよね?

「み、水上さん……? ちょ、ちょっと近い……かなあ?」


 一応そう抗議してはみるけど、どこ吹く風で無反応。本当に寝ているようだ。

 ど、どうしよう……。いや、寝たら死ぬのでこのまま起き続けるのは確定なんだけど……。


 近づきすぎて当たっている。腕に。……井野さんも井野さんだけど水上さんも見た目通りたわわなものをお持ちになっているから、なかなかに困る。

 寝ているしなあ……。スマホで映画とか動画見てもいいんだけど、それだと起こしちゃうかもしれないし……。このまま何もしないまま起きているのもしんどいというか……。


「……八色さん……んん……」

 背中ではなんか湿っぽい声色で水上さんが寝言呟いているし。

 直接が駄目なら間接的に責めればいいじゃない、的な感じなんですかね……。


 ここまで色っぽい声を出されるとこっちもこっちで悶々としてしまうもので。

 やっぱり寝たくても寝られない。

 もう何時間聞いたかわからない虫の音が、変わらず聞こえて続けているのを感じながら、ひたすら夜が明けるのを待ち続けた。


 かれこれ四時間が経過。朝の七時になった。目がぱっちりと開いたまま、閉めたカーテンの隙間から差し込む明るい陽を見て、やっと朝になったんだなと感じた。

「……んんー、よく寝ました……」

 すると、むくりと起き上がった水上さんが腕を僕から離して頭の上で伸びをし始める。


「いい朝ですねー」

「……そのようで何よりです」

「あれ? どうしてそんなに顔が赤いんですか? 何かありましたか?」

 どうやら夜の行動は完全に無意識のようだ。気づいていない。


「……別に、どうも」

「……なんで、タオルケットで下半身隠しているんですか?」

 意地悪い笑みを浮かべては、ニヤニヤと顔を近寄せる。

「もしかして、朝だ──」


「別にそういうわけじゃないので気にしないでいいよ。今日は大学は? 行かなくていいの?」

「一限ありますけど、一度家帰ると間に合わないですし、どうせ出席ない授業なんで最悪どうにかなります」

「……そう。ならいいけど」


 一年生の前期から授業を切る、ということを覚えてしまったようで……。いえ、お好きにどうぞ。

「何時に出れば間に合うの?」

「二限は基礎演習なので出ないとまずくて……、九時に家を出れば間に合うんで、八時くらいですね」


「……ちなみに、ウチから東京駅に向かおうとすると、東京名物、地獄の満員電車、中央線快速編を味わうことになるけど、その覚悟はよろしいでしょうか?」

「あ」

 どうやら、そのことを完全に失念していたようだ。


「駅員さんが乗客を押しこむ夢のワンダーランド、かなーりしんどいよ……?」

「……と、とりあえず洗濯機回させてもらっていいですか?」

 いつも僕がしているような遠い目をしつつ水上さんはタオルケットを引き寄せては自分の身体を隠そうとする。


「……やっぱり、少しおっきくなってたんですね」

「……誤差だよ。これくらい……」

 僕も同じように遠くの景色を眺めながら答える。ほんと……はあ……。

「ふーん……」


「では、お邪魔しました。また機会があったらお邪魔するんで」

 洗濯・乾燥まで終わると、水上さんはそう言い僕の家を後にしようとする。

「……あ、朝勃ちの処理のオカズにしてもいいですからね? 八色さん」

「処理しないから安心していいよ」

 もう収まってますし。はい。


「……でも、朝起きてもそんなに匂いませんでしたよ? 我慢されたんですよね? 溜めちゃうと毒なんじゃ」

「一日溜めたくらいで毒になるんだったら世の中はもっと性犯罪で満ち溢れているやばいものになるから安心していいよ。いいから早く帰ろうか」

「……仕方ないですね、それでは今日のシフトでまた」

「……はいはい」


 なんとか、防犯ブザーの出番がなかったことに一安心をして、僕はポリポリと頭を掻いて朝ご飯の心配をし始める。

「あと……着替えないと……」

 部屋のタンスから適当に服を引っ張り出そうとするけど……。


「……スマホ充電しっぱなしじゃないか」

 ふと目に入った机の上には、水上さんのものと思しきスマホが充電器に繋がったまま放置されていた。

「……今日届ければいいか……」

 これくらいで済めば、御の字、か……。

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