第57話 いつまでも 待ち続けます 来るまでは

「はぅ……」

 お腹の音を聞かれたことで、井野さんは顔を真っ赤にして俯いてしまう。

 僕はその様子を見て小さく笑いながら、

「何か食べたいものある? といっても、もう十一時回っているから、そんなに選択肢ないと思うけど……」

「……い、いえ……そんな気を使わなくても……」

 キュウ。


「う、ぅぅ……」

 お腹の虫にさえいじられてしまう井野さん。……ここまでくると天性のいじられ役なのかと思ってしまう。


「どうする?」

「で、でも……あまりゆっくりしていると八色さんの終電がなくなっちゃいますし、家に帰ればなにか食べるものあるので……」

「そう? まあ、それなら無理にとは言わないけど」

 そして、三鷹行の帰りの電車が滑り込んでくる際、彼女はボソッと呟いた。


「……し、強いて言うなら、八色さんを……」

「え? 僕がどうかした?」

「いっ、いえ、なんでもないですなんでも。で、電車来ましたよ、乗っちゃいましょう?」

 後ろ向きに僕を見ながら、彼女はニコッとそう微笑み、少し混みあった車内に入っていった。


「そ、それじゃあ今日はありがとうございました……」

「うん、じゃあまたね」

 井野さんを家まで送り届けて、高円寺駅に戻ったのは零時半。なるほど、確かに二十分くらいしか余裕がなかったから、ご飯食べるにしてもファストフードか牛丼か、の選択肢しかなかっただろう。で、ポテトはさっき球場で食べたし、女の子に牛丼屋はちょっとハードルが高い。


 残り本数が少なくなった快速電車に乗り、自宅の最寄り駅に着いた。階段を降りている間に、家に帰ったら何をしようかと考えごとをしていると……。

「──随分と遅いお帰りだったんですね。……八色さん」

「はひ?」

 改札の前で腕を組んで立っている、水上さんの姿があった。


「……え? なんでここに? バイトは?」

 だ、だって今日は出勤だったはず。

「……バイトが終わって真っすぐここに来ました。八色さんがちゃんと帰ってくるかどうか確かめるために」

「も、もう終電ないと思うんだけど……」

「私だってもう少し早く八色さんが帰って来ていたら終電までには帰りました。……八色さんが悪いんですよ? ……まさか、ご両親の目を盗んで本当にどこかに連れ込んで」


「違う違う違うから。今日の試合の終了が十時回っちゃって。球場出て駅に着いたのが十一時過ぎだったんだ。そこまで遅くなったから、井野さんを家まで送っていたらこの時間になったわけで」

 ってなんで僕は水上さんにアリバイを説明しているんだ?


「……お父さんがご一緒していたんじゃないですか?」

「……帰り道、仕事の事情でこの間の小千谷さんみたいにさらわれた」

 僕がそう答えると、水上さんはわけがわからない、というふうに顔をしかめてみせる。うん、まあ意味不明だろうね。

「そ、そんなことよりどうするつもりなの? もう電車ないし、帰る手立てあるの?」


「ないですよ」

「……あ、あのねえ」

 まずい、このままだと僕の家に泊める流れになってしまう。それだけはなんとしてでも回避しないと。水上さんに僕の家を知られたらは絶対にまずい。

 こうなったら、井野さんのときと同じようにタクシー代貸すのか……? で、でも武蔵境から尾久までタクシーっていくらかかるんだ……? 結構遠いぞ?


「げっ……」

 よ、予想金額八千円……。それに深夜割増も入るはずだから下手すれば五桁飛ぶのか……。スマホで調べた僕は顔面蒼白になりつつ財布の中身を確認するけど、残念ながらそこに諭吉さんはいらっしゃらない。


「……今日の夜は、どうされるおつもりで?」

「このまま八色さんが帰って来なかったら、仕方ないのでそこの駅前のカラオケに入って一夜を明かそうかなって思ってましたけど、それもお金がかかるのでできればやりたくないなあって」

「つまり?」

「泊めていただけませんか? 八色さん」


 僕は無言で財布のなかの五千円札を水上さんに押しつけて、その場を立ち去ろうとした。これ以上関わるとほんとに家に泊めることになりそうだったから。でも、

「ちょ、ちょっとどういうつもりですか? そんな手切れ金みたいに押しつけられても困りますっ」

 いや手切れ金だよ。五千円払ってでも僕はあなたに家を知られたくない。


「そこまでして私に部屋を隠したいんですか? ……大丈夫ですよ? どんなにえっちなビデオや雑誌が散らかっていても、私その辺には理解があるのでなんとも思わないんで」

 ええ理解はあるでしょうよねえ、そうでないと先日の行動の説明がつきませんものねえ。


 夜の街を早足で逃げる僕と、それを追いかける水上さん。端から見れば異様だ。

「散らかってないから。そういうわけじゃないから」

「……じゃあ、どこかにはあるんですね?」

「……そういうことでもないから」

「今の間、私気になります。やっぱりお邪魔するしかありませんっ」

 瞳を黒く染める方向に輝かせるな。怖い怖い。あと早足で追いかけられるとなんかプレッシャーが凄い。

 そうして何の生産性のない会話をしつつ、武蔵境駅の周りを意味もなくぐるぐると逃げ回っているうちに、やがて僕の体力が尽きてしまった。


「はぁ……はぁ……わかった、わかったから……どんだけ体力あるんだよ……逃げても逃げても全然撒けないし……」

 かれこれ三十分くらい早足か駆け足で動き続けたので、もう息が切れてしまっている。水上さんは平然とした表情を崩さないままだ。それがまた怖いのだけど。

「私、中高と陸上やってたので」

「……専門は?」

「長距離です」

「……それは反則だよ……」


 そんな子相手に、逃げ切れるはずがない。僕のスポーツ歴はせいぜい中学校でやってた卓球程度だ。しかも弱小部だったからきつい練習もえぐいランニングもなかったし、せいぜい雑巾がけで下半身強化とか言われたくらい。それ以来スポーツは一切やっていないので、体は訛っている。


「……わかった、わかったからもう勘弁して……。家には泊めるから……」

「ありがとうございます」

 とりあえず、今後水上さんから走り回って逃げるようなことにならないようにしよう……。


 とほほとため息をつきながら、家に置いてある防犯ブザーの位置を思い出しながら僕は水上さんを家へと連れて行きはじめた。

 ……今日もまだまだ終わってくれなさそうだ。

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