第54話 掘る場所は計画的に()

「そ、それじゃあお疲れ様っすー」

 スタッフルームに戻ると、光の速さで浦佐は着替えを済ませてしまい、声を掛ける間もなくお店から出て行った。

 ……ちょ、このタイミングでお前がさっさと帰ると僕が危ない……。


 僕は恐る恐るロッカーで荷物をまとめている水上さんを見やると、彼女は小さくため息をついて、

「……そんなに怖がっても何もしませんよ。……この間怒られたばっかりなのに」

「……そ、そう」

「八色さんがご希望されるなら、やってもいいですよ?」

 お店の制服のポロシャツをたくし上げる素振りをしてみせたので、


「謹んで遠慮させていただきます」

 と秒で断った。

「……わかってますよ。わかってます」

 水上さんは残念そうに目を細めて、そのまま更衣室に入る。前の水上さんなら、こんな状況になった途端何かとしでかしていたんだけど、僕の説教以来、そういうことはなくなっている。


「……強行突破は意味がないって、教わりましたから……」

 数分して、プリントシャツと水色のワイシャツに着替えた水上さんが出てくる。

「……この服、新しく買ってみたんですけど、どうですか? 八色さん、シンプルな格好が好きそうだったので」

 確かに初めて見る服だなとは思った。季節が進むにつれて、水上さんの格好はどんどん薄着になっていく。まあ、自然な範囲でね。そう言う僕も半袖だし。


「落ち着いていていいと思うよ。水上さんっぽい」

 彼女と入れ替わる形で更衣室に入る。すれ違いざまに見た彼女の横顔が、少しだけ緩んでいて、

「……津久田さんに見てもらった甲斐がありました……」

 ふと、そんな呟きが耳に入った。


 ……津久田さんと水上さんが手を組んでいるのか。愛が重たい水上さんと、長すぎる片想いを続けている津久田さん。ある意味似た者同士のふたり、案外気が合ったりするのだろうか。

 一瞬、津久田さんの名前を思い出して、この間の小千谷さんの断末魔の叫びのような悲鳴をフラッシュバックさせる。


 もしや……水上さんも痺れを切らしたら、あんなふうに僕を拉致して何かするんじゃないだろうな……? 性的なものがだめならそれ以外で攻めればいいじゃない、的な論理で。

 ……とりあえず、水上さんの不満指数の動向には気をつけないと。


 着替えを終わらせて、お店を出る。新宿駅へと歩き始めると、狙ったように僕のスマホが音を鳴らした。


いの まどか:明日は午後五時に千駄ヶ谷駅の改札前でお願いしますm(__)m


 この間の反省を活かして、既読をつけたタイミングですぐに返事をしておく。


八色 太地:おっけー、了解です


「……井野さんからですか?」

「うん。……明日の野球の話」

「……そっか、明日、か……」

 水上さんはそう言っては悲しそうな瞳を浮かべて、アスファルトの道をしばしの間見つめる。

「……八色さん、七月の夏休みは、特に予定は立ててないんですか?」

 七月の、とわざわざ冠をつけたのは、きっと大学の夏休みと区別するためだろう。


「そ、そうだけど」

「だ、だったら」

 彼女は僕より三歩前に出て、僕と正対し立ち止まる。可憐な瞳が揺らす先は、恐らく僕のことを真っすぐ捉えている。

「一日でいいんで、その夏休み頂けませんか?」


「……つまるところ、それは僕にデートしろと?」

「……はい」

 まあ……この間の件を吹っ切るにはいい機会かもしれない。今のままぎこちない感じにいるのは、僕も彼女も本意ではないだろうし。どうせ何も考えなければ二週間丸々引きこもり生活をすることもあり得るのだから、むしろ好都合なのかもしれない。


「別に……いいけど」

「……あ、ありがとうございます。……今度は、ちゃんとするので……」

 そうしてまた人混みのなかを歩き始めて、いつものホーム下にたどり着く。

「それじゃあ、お疲れ様でした。あ、井野さんは違法ですからね」

「わかってるって……じゃ、またね」

 久々に井野さんは違法の合言葉を聞いたかもしれない。階段途中、チラリと振り返ると、今日は穏やかな笑みとともに、小さく手を振る水上さんの姿が映った。

 ……これなら、とりあえずは大丈夫だろうか。


 さ、明日は野球か……。球場行くのなんて何年振りだろうか。高校の野球部が県大会でベスト4に残ったときの全校応援以来かな……。だとするなら、プロが使う球場に行くのは初めて……だね。うん。

 野球観戦だし、まあ家にお邪魔したときよりは軽めの格好でもいいよね、きっと。


 待ち合わせに指定された千駄ヶ谷せんだがや駅に着いたのは、約束の十五分前。……万が一にもお父様を待たせるわけにはいかないので、この時間だ。これで先に着かれていたらほんとに泣くしかないけど、駅前のロータリーに井野親子の姿はなかった。


 千駄ヶ谷駅周辺は、数多くの体育系施設が揃っている。今日行く神宮球場、あとは国立競技場、さらに東京体育館に至っては駅の目と鼻の先に立地している。それだけでなく、十分も歩けば東京将棋会館もあり、文武両面の顔を持った街とも言えるだろう。


 駅前には僕と同じようにこれから野球を見に行くであろう人がチラホラと見える。バッグからビニール傘の先端が覗いてたり、首からスティックをかけている人だったり。

 ロータリーの柵に腰をかけてふたりを待っていると、どうやら一本の各駅停車が到着したようで、また同じようにユニフォームだったりタオルを巻いている人も数多く改札から出てくる。


 その一団のなかに、朗らかな表情とともにやって来た井野さんのお父様と、それに引き連れられるようにやや伏し目がちの娘さんがいたのだけど……。

 あれだな。お父様の見た目が若すぎて、ぱっと見親子に思えない……。


「お待たせ、今日は来てくれてありがとう」

 章さんは片手をあげて僕のもとに近寄っては、そう言う。

「い、いえこちらこそ誘っていただいてありがとうございます」

「本当は恵さんと来るはずだったんだけどね、円がどうしてもついて行くっていうから、こうなったんだ。普段は野球なんてこれっぽっちも見ないのに」

「はぅ、だ、だからどうしてそう余計なことばっかり言うの……ちっ、違うんです八色さん、そ、そういうつもりで来たわけじゃなくてっ」


 のっけから顔を真っ赤にして慌てている……円さん。まだ僕は何も言っていないのに、勝手に墓穴を掘りそうな勢いだ。

 ……今日もこの感じは健在なんですね。一体どれだけお父様にいじられるのだろうか……。あと、だとするならむしろ井野さんありがとう。井野ご両親と一緒に野球観戦とかほんとに胃がねじり切れそうだ。


「ま、とりあえず行こうか。内野席だから、慌てなくても席はあるし、今日はそんなに混まないカードだから」

 挨拶もそこそこに、章さんは軽い足取りで人の流れができている歩道に乗っかるように進んでいく。僕と……円さんもそれについて行き、少し蒸している街並みを歩きだした。

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