第45話 表面の傷は取れますが、貫通傷は直りません

「あっ……ありました。すみませんこんな夜遅くにまた戻ってきて……」

 水上さんの家に戻ってきた井野さんは、がさごそと部屋のなかを探し回って、何かを見つけたようだ。僕や水上さんが聞いても、具体的なものの名前は言ってくれなかったけど。


「……ところで、八色さんはまだいたんですね。もう、十時半ですけど……」

「えっ? あ、ああうん。今ちょうど起きたところだからさ。これから帰るところなんだ」

 井野さんにはさっきの顛末は話さないほうがいいかな……。普通に十八禁なことされかけたわけだし、少し頭を冷やしたい。


 体よくここから脱出できる口実を得た僕は、井野さんの後をついていくように玄関に向かい、靴を履き始める。

「そ、それじゃあお邪魔しましたあ……」


 まだ梅雨の合間だけど、夜でも外は少し蒸し暑い。建物を出て駅へと向かう途中、背筋に冷や汗をたくさんかいてしまった僕を見て、

「八色さん、汗ぐっしょりですね……どうかしたんですか?」

 ちょっと不思議そうに首を傾けて聞いてくる。

「ちょ、ちょっと寝汗がひどくてね……はは、恥ずかしいなあ……」


 とりあえずそういうことにしておいた。本当に駅から近いところに家があったので、たったそれだけの会話でも、電車が走り抜けるモーター音が大きく聞こえてくる。東京都区内でも利用客数を下から数えるとあっという間に順番が来るこの駅は、少し東京らしさの影は潜めている。静かでいい街だけどね。


 改札を抜け、東京方面のホームで電車を待つ。

「もうこの時間だと電車混むだろうし、遠回りになるけど楽して東京から座って帰ろう」

「そ、そうですね……それがいいと思います」


 ほんとは逆方向から回っていったほうが早いんだけど、そうなると新宿で乗り換えないといけなくなる。この深夜帯の中央線、立川や八王子といったベッドタウンに向かう下り電車は物凄く混雑する。新宿から乗り換えるときつい思いをするかもしれないから、始発の東京から座って帰ろう、という作戦だ。


 すぐに電車はやってきて、空いている座席に並んで座る。この時間の乗客は大体サラリーマンやOLといった大人がほとんどで、井野さんのような制服を着た高校生はほとんどいない。少しだけ居心地悪そうにして体を縮こませて、人の視界から隠れようとしている井野さん。


「……でも、よく忘れ物に気づいて取りに戻ったよね? そんなに大きなものじゃないなら、確認しないとわからないんじゃ」

 ぱっと見た感じ、井野さんのものらしき忘れ物は落ちてなかった。それだけ小さなものなら、気づくのは困難だろう。


「……それ、嘘なんです」

「え?」

「……本当は忘れ物なんてしてません。……ただ、なんとなく八色さんと水上さんをふたりきりにすると、危ないというか、なんというか……。八色さん絡みの水上さんって、ちょっと怖いというか、たまに表情が無いのも見えたりするので……。普段は落ち着いた年上の女の人って感じなんですけど……」


 ……脱帽だよ。これで僕が襲われていたってことも言い当てたら百点満点あげてもいい。

「……大丈夫、何もなかったから」

 ただ、本当のことを話して井野さんと水上さんが険悪になるのは避けたいというか……。一応、今のところ井野さんに「実害」は出てないからね。僕以外にも何かしでかすようになったらそれはもう事案だよ。出るとこ出てもらう。


 ……僕がはっきりさせなかったからな……。ふたりとも。それが全部の根源なわけで。

 はぁ……明日シフト水上さんと被るんだよなあ。どんな顔して会えばいいんだ僕?


 東京で乗り換え、一度高円寺で降りて井野さんを家まで送った。……高円寺に着いたときはもう零時近かったからね。そんなことをしていると、危うく家までたどり着く終電を逃しかけることになり、また肝が冷える思いをした。


 翌日。とりあえず何事もなかったように僕は水上さんと接した。表面上は。ただ、さすがにあんなことをされて前と同じようにいられるほど無神経でもお人好しでもない。そりゃあ僕にだって性欲のひとつやふたつはあるけど、無理やりやらされて喜ぶほど変態ではない。……ほんとに。


「あの八色さん、このブルーレイ、バーコードが通らなくて……」

 休憩後、補充に出ていた僕は近くを通りかかった際に水上さんにそう声を掛けられる。一緒にカウンターに入っている小千谷さんはレジを打っている。

「……ちょっと見せてみて」

 僕は水上さんからソフトのパッケージを受け取り、ある部分を確認する。


「あー、これ……。リージョンコードが日本に対応していない奴だから買取できないものだね。ここ、ここのマークがフリーかAじゃないと、日本国内じゃ再生できないソフトになっちゃうんだ。だから、これは買っちゃだめなやつ。あとなんか怪しいソフトある?」

 仕事は仕事なので、聞かれたら必要なぶんは答えてあげる。私情で店に迷惑をかけるわけにはいかないし。


「あと……このDVDがなんかパッケージの画質が粗くて……」

「ほんとに? どれどれ……」

 わ、海賊版だこれ……。リージョンコードが海外だったり、海賊版だったり……結構このお客さん、怪しいぞ……?


「これ持ってきたの、どんなお客さんだった?」

「え、えっと……髭を生やした中年の男性です……」

 ますますきな臭い。こういう場合の中年男性の信用はかなり低い。申し訳ないけど。業者か拾い屋(道端に落ちていたり捨てられているものを売りに持ってくる人)か、はたまた……ヤバめな人か。僕は小千谷さんがレジから空いたのを見て呼びかける。


「小千谷さーん、ちょっといいですか?」

「ん? どしたー八色―」

「……これ、どう思います?」

 小千谷さんの特筆すべき点はもうひとつある。ヤバイお客さんとそうでないお客さんの見極めだ。もちろん、ここで言うヤバイお客さんとはクレーマーとか生易しいものではない。偽物を売って利益を得ようとする本物の犯罪者のことだ。


「うっわ。さっきのおっさんこれ持ってきたのかよ……怪しさぷんぷんだなあ。よく気がついたな水上ちゃん」

「いっ、いえ……八色さんに聞いただけなので」

「ソフト類は特に買取価格が高価だから、海賊版が来やすいんだ。浦佐とかこういうの見るとガチギレするからなあ。『クリエイターへの敬意がないっす敬意がー』って。怪しいって判断できるだけ上出来よ」

 渋格好いい顔でじっとパッケージを睨みつけて、ひとつため息をつく。


「買えない奴はきっぱりゼロ円。とりあえずそれでいい。他は大丈夫なんだよな?」

「僕が見た限りでは」

「正直そういう客から商材仕入れたくはないけど、水上ちゃんにそこまで強気なこと要求するのも酷だし、それでいいよ。駄々こねられたら俺か八色呼んで。無言の圧で追い払うから。買えねーものは買えねーんだよって」

「わ、わかりました……」


 ひとまず大丈夫そうかと思い、僕は補充に出る。……これだけ長い間話しても、あまり不自然さはでなかった、はず。目ざとい小千谷さんが何も言わないんだ。きっと、うまく隠せているはず。

 離れていく僕を名残惜しそうに見る水上さんを見つけて、思う。


 ……こうなるから、職場恋愛は嫌だったんだけど、ね……。

 結局、例のお客さんは「じゃあ全キャンセルで」とあっさり引き下がったらしい。まあ、それはそれでいいんだけど。

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