第44話 既成事実と忘れ物

 何か……甘い香りとともに目を覚ましたと思う。ほんのりと感情を刺激するような、そんな優しい香りで。

「……ん、僕、寝ちゃったのか……?」

 やばいやばい。寝たら駄目だってあんなに心に決めていたのに、早く帰らないと……。

「……って、はい?」


 そう思い立ち上がろうとすると、お風呂上がりなのだろうか、髪の毛を濡らした水上さんがバスタオル一枚で部屋に出てきていた。

「あ、八色さん、起きましたか。予想より早かったですね。もう少し眠るかと思っていたんですけど」

「みみ水上さん、どうしてタオル一枚しか着けてないの? そ、それに井野さんは?」

 なだらかな曲線を描く肩のラインに、拭き残した水滴が艶めかしく垂れている。そ、それにこの香り……なんか、おかしくないか……?


「井野さんならもう帰られましたよ。さすがに十時過ぎてまで高校生を家にいさせるわけにはいきません。駅まで送ってあげたら少し汗をかいてしまったので、お風呂に入っちゃいました。ひとり暮らしに慣れちゃうと、着替えを脱衣所に持っていくの忘れがちになっちゃうんですよね」

「ひゃ、百歩譲ってお風呂入ったのはいいけど、僕がいるんだから着替えは忘れずに持っていこうよ」

 ……それとも、わざと忘れたのか。


「それにしても、八色さんが寝落ちてしまうなんて意外ですね。こういう場ではきっちりする人かと思っていたので……。まあ、私にとっては、あれを早い段階で試せたので好都合なんですが」

 お湯で火照った身体を僕に近づけては、意味ありげな微笑みを浮かべて彼女はそっと続ける。

「何か、甘い香りがするとは思いませんか?」

 細い指を空中に立てて、水上さんは呟いた。


「お、起きたときからなんか香るなとは思ってるけど……何? これ」

「アロマオイルです。……男性の性欲を促進する効果のある」

「……まじですか」

「井野さんが帰るあたりから焚き始めたので、そろそろ二時間が経過していい感じになっていると思うんですが……ムラムラしてます?」

「いっ、いやっ……」

「……さっき立ち上がろうとしてましたけど、どうして今はしゃがんでいるんですか?」

 意地悪い表情を作り、水上さんは僕の頬から首筋をツーっと指先でなぞっていく。


「……もう、我慢できないんじゃないですか? 八色、さん?」

「そ、そんなこと」

「……やっぱり私、八色さんが他の女性と仲良くしているのを見ると、少しイライラしてしまうみたいです。井野さんと話しているのを見ると、どうにも嫉妬が抑えられなくて……」


 寝たら死ぬぞ寝たら死ぬぞ寝たら死ぬぞ……寝たから、死ぬ。これは、まずい。

 バスタオル一枚纏ったままの水上さんは、しゃがみこんだままの僕の両肩をそっと押して、床に倒れさせる。……今度は床ドンだ。そして、仰向けに寝転がったことで、

「ほら……八色さんのここも、準備万端みたいですよ? 体は正直に反応しているのに、無理に我慢されたら毒ですよ」

 ……見られてしまいました。


「こっ、これは生理現象みたいなものでっ、そ、そういうつもりじゃ……」

「私、気づいちゃったんです。もっとわかりやすく、早く選んでもらう方法」

 僕の姿を見て恍惚とする水上さんは、バスタオルの折り目にそっと手をかけて──


「ちょ、水上さん何するつもりっ」

 サラサラと音を立てて、一糸まとわぬ姿を僕の前に現した。

「……責任、取ってもらえばいいんだって」


「ぁ……」

 僕は反射で目をつぶって、頬を床にこするような形で目線を逸らす。


「既成事実……あと、私が八色さんの子供を妊娠しちゃえば、八色さんは私だけを見てくれる。そうすれば……もう井野さんに八色さんを奪われる心配もなくなる。……そうすれば、私はずっと八色さんの側にいられる。……そうすれば……もう私は見捨てられなくて済む……。完璧だと思いませんか?」

「どっ、どこが完璧なんだよっ、駄目だってそんなのっ!」


「……井野さんは覚悟が足りません。第一、八色さんと繋がるのに避妊具を用意している時点で駄目です。私だったら、八色さんの全てを受け入れられます。……今日、危険日なんですよ……? ほんとにちょうどいいタイミングを井野さんは指定してくれました。今度会ったら、お礼を言わないといけないかもしれませんね」


 逃げなきゃ、逃げないと……! そう本能が叫んでいるのに、恐怖で体がすくんで動いてくれない。

 このままだと……本当に、襲われる……!


 そうして、水上さんは僕に覆いかぶさるように体を密着させてくる。お風呂上がりで熱くなっている彼女の柔らかい四肢が、僕の動きを完全に封じ込める。

 ……まずい、このままじゃ……。

「八色さん……幸せな家庭を、築きましょうね……?」

 怖いくらいの笑みで、水上さんは僕の唇に彼女自身の唇を当てようとしてきて──

 もう、駄目だ……。そう思ったとき。


 ピンポーン。


「……いいところだったのに。こんな時間に誰なの……?」

 奇跡的にタイミング良く、チャイムが鳴ったようだ。水上さんは立ち上がって、全裸のままテレビインターホンで来客の顔を確認している。

「……井野さん? どうして、帰ったはずじゃ……」

 表情に焦りが見え始めた水上さんは、忙しない手の動きでひとまず受話機を取る。


「は、はい、水上です。どうかしました?」

「す、すみません、私ちょっと忘れ物をしたかもしれなくて、一度家に上がらせてもらっても構いませんか?」


 ……おお神よ。神はまだ僕を見捨てていなかったんだ……! 今このタイミングで帰ってきてくれた井野さんに心からの感謝を心のなかで叫びつつ、僕は立ち上がって今がチャンスと逃げ出そうとする。けど……。

 ……キッチンと部屋を繋ぐドアが開かない……?


「どんなものか教えてくれれば、私が探しますよ?」

 ……げ。さりげなく拒否しやがった。そして、ドアの前で呆然としている僕をチラリと見やって、含みのある笑顔を浮かべる。

 こ、こうなることまで織り込み済みか……!


「いっ、いえ、ちょっと説明しにくいものでして……自分で探したほうが早いと思うんです」

「……わかりました。今開けるので待ってください」

 これ以上拒否するのも怪しまれると判断したのだろう。苦渋の表情で水上さんは共同玄関のドアを開けて、井野さんを建物に入れた。すぐにロフトに上がって、てきぱきと服を着て身だしなみを整える。


 僕が立ち尽くしたドアに、鍵を差し込んで回し、ガチャりと音を立てて開ける。

 こ、ここのドアにも鍵が付いてるの……? 嘘でしょ……?

「……これじゃ私は諦めませんから。……また、次の機会を探しますから」

「……ははは、お手柔らかにお願いします」


 さすがにもう怖いよ。ほんとに怖い。

 次も似たようなことされたら……さすがに今後の付き合いかた考えるかな……ははは。

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