第43話 魔の手が近づく十分前

 さて、とりあえず井野さんは某私大の古典の過去問を解いて、わからないところを聞くと言ったので、先に水上さんを見てあげることに。

「で、範囲はどこからどこになりそうなの?」

「ここから……ここまでになる予定です」

 ……がっつりヤンデレ女が出てくるところじゃないか。え、なんか変な刺激とか受けたりしないよね?


「とくに、ここらへんの現代語訳がそもそもわからなくて……八色さん、わかります?」

 水上さんが指さしたのは、そのヤンデレ女と夫が絡むシーンなのだけど……。

「あ、ありていに言えば、夫には別に好きな女性がいたんだけど、わけあってその女性と結ばれることはできなくて、政略的に他の人と結婚した。貴族社会ってそんなものだしね。ただ、その女性のことを夫は忘れることができずに、彼女に似た姿をした女性とこっそり会ったりして気を紛らわせていたんだ。ただ、妻は夫の着物から別の女の香りがすることに気づいて──」


 ……ここまではまあよくある話なのかもしれないけど、ここからがヤンデレを遺憾なく発揮していただける説明となる。

「──『私に嘘をつくくらいなら、早く私を殺しなさいよ』と夫に言い放つ。困り果てた夫は仕方ないから妻のことを抱くのだけど……」


 ……ここで言う抱くとは、もちろん夫婦の営みのことである。ただ、普通の古文だとそのへんの描写って事前と事後だけなんとなくぼかすことがほとんどなんだけど、この物語はそれだけでは終わらない。……がっつり行為中のことも描写する。なかなかに生々しい。よくこの物語を取り扱おうって思ったな。先生は。


「……とまあ、妻の愛情が日に日に歪んでいくのを目の当たりにして、夫は気を病んでしまう、的な話です」

 この妻、夫が出掛けるたびに嫌味を言ったりとかで、さらに愛を拗らせる。……水上さんに通ずる点もいくつかはありそうだ。考えたくもないけど。確実に違うことがあるとするなら、水上さんは「私を殺しなさい」ではなく「嘘をつく僕は必要ない」と言ったことか。


「……結構ドロドロの愛憎劇なんですね、これって」

「うん……。ここの範囲はそんな感じ」

「そうじゃないところもあるんですか?」

 どうしよう、言っていいのだろうか。……ああでも実際そう描かれたのだから仕方ない。


「……抵抗する女性を無理やり襲ったり、妹と関係を持ったり、男同士で愛し合ったり」

 瞬間、部屋から音という音が消えた。人が息をする音も、紙とシャーペンが擦れる音さえも、何もかもが消えた。別に問題を解いていた井野さんも、今の僕の言葉には驚いてしまったようで、完全に手を止めてしまっている。


「……八色さんって、もしかしてそういう願望があるんですか?」

「違うっ、違うからっ。課題で読まされただけで、決してそういうことをしたいとかそんなつもりは──」

「……別に、八色さんが望むなら、私が責められる側になってもいいんですよ?」

 と、水上さんは隣の井野さんに聞こえないくらいの大きさで耳元に囁いてみせる。


「だっ、だから、そういうつもりじゃなくて……」

「わかりました。おかげでざっくりと概要は掴めました。ちょっと小テストの問題と照らし合わせてみますね」

 それは何のわかりました、なのかなあ……。僕は不安でいっぱいだよ。


 ちょっと今後が不安になりそうなことを挟んだのち、今度は反対側の袖がくいくいと引かれた。

「あ、あの……八色さん、ここの問題なんですけど……」

 少しだけ気まずそうに顔を赤らめさせている井野さんが、僕にそう聞いてきた。

「この姫君の感情がどこに書いてあるかわからなくて……」

「えーっと、どれどれ……あー、なるほどね、ちょっと本貸してもらってもいい?」


 僕は足をずらして、井野さんのすぐ真横に移動する。井野さんから問題集を貰った僕は、シャーペンで文節ごとに斜線を入れながら説明をしていく。

「この物語はとくにそうなんだけど、主語が何度も何度も変化するんだ。しかもそれを説明してくれないから性質が悪い。ここに出てくる登場人物って何人だと思う?」

「えっと……四人、ですか?」

「残念。五人なんだ」

「……あれ? でも、五人目の名前なんてどこにも出てませんよ……?」

「この文章中にはね。……敬語表現って習ったよね? 給うとか侍るとか」

 問題文の空白に、それらのことを書き込んでいく。


「は、はい」

「で、このなかには、奏す・啓すって単語が出て来てるよね? この敬語の尊敬対象は絶対に天皇なんだ。だから、登場人物は天皇も混ざって五人」

「……な、なるほど」

「今も昔も、人間は省略したがるからね。そのふたつは天皇にしか使わないんだから、わざわざ書かなくてもいいでしょ? 的な。だから、今の言葉が出てきたら要注意って感じだね。それを踏まえて主語を追いかけていくと──」


「──っていうこと。つまり、答えはBになる」

「……な、なるほど、よくわかりましたっ、ありがとうございます」

 どうやらかなりモヤモヤが残る問題だったのだろう、井野さんはパッとスッキリしたように爽やかな笑みを浮かべてはそう言う。


 その後も、ふたりから何回かわからないところを聞かれては答え聞かれては答えを繰り返すうちに、すっかり窓から覗く光は暗くなり、カーテンを閉める時間になった。腕時計を見ると、もう夜の九時だ。晩ご飯は、せっかくなので宅配ピザを、ということだった。まあ、こういう機会がないと頼まないからね。


 僕も途中途中魔剤を補給して眠気を覚ましながらいったけど、やはりピザを食べたことでトドメが刺さったようだ。とうとう眠気に勝てなくなり、うつらうつらと舟をこぐようになってしまう。

「……あ、あの、八色さん。やっぱり眠いんじゃ……」

「え……あ、ごめん……だ、大丈夫だよ……」


 目をこすりながらぼやけた声でそう返事をするも、いや、こんな声じゃそう思われても仕方ないだろとひとり突っ込みを入れてしまう。

「そろそろ夜も遅いですし、解散にしましょうか。明日も金曜日で、私と井野さんは学校行かないといけないですし」

「……そ、そうですね、結構がっつりわからないところを聞けたので、満足です」


 井野さんはかばんにルーズリーフや参考書の類をしまい始める。いけね……僕も筆記用具とか片づけないと……。ああ、でも眠くて視界がぼやけちゃう……。

「……八色さん。眠いなら少しだけ、仮眠されます? 終電も零時頃までありますし」

「……で、でもさすがにそれは……悪いというか……」

「このまま帰ったら八色さん、帰りの電車で寝過ごして終点まで連れて行かれそうですよ」

「……でも……でも……」


 寝たら……駄目なのに……駄目なのに……体が言うことを聞いてくれない……。魔剤の効果が切れたのか、瞼が重力に負けるようになってしまう。

「──八色さん、ちょっと駄目そうなので先帰っちゃってください井野さん」

「──え? で、でも……それじゃあ」

「──さすがにこれ以上、高校生を家にあげるのもできないですし。駅までは送っていくので」

「──は、はい……」


 どこか遠くでそんな会話をしているのが聞こえるなか、僕はテーブルに突っ伏すような形で、落としてはいけない意識を落としてしまった。

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