第41話 嘘つきは嫌いなんで

 井野さんに古典を教えることを約束した次の日。この日の出勤は、僕、水上さん、井野さんの三人だった。あと、宮内さんも途中までいる。


 出勤前の時間の過ごしかたは人それぞれだ。僕はスマホでタイムラインをボーっと眺めて時間を潰すことが多いし、浦佐はもちろんゲームをしている。小千谷さんは缶コーヒー片手に競馬やサッカーといったギャンブル関係のスポーツニュースを読み漁り、井野さんはWEBコミックを読んだりしてたまに怖い笑みを浮かべたり。……水上さんは、この間チラッと見えたとき「バレずに媚薬を飲ませる方法」について書かれた記事を読んでいた。……とりあえず、水上さんから差し出される飲食物は手をつけないことにしておこう。


 例によって、この日は三人が三人スマホをいじる暇つぶしをしていたので、それほど会話は見られなかった。ただ、夕礼が近づいたことによって、宮内さんがスタッフルームに戻ると、

「あら、なんか井野さんどこか上機嫌じゃない? 何かいいことでもあったのかしら?」


 確かにニコニコしながら画面を見ている井野さんにそう声を掛けた。……顔の両サイドに巻かれた髪の間に映る口の端は緩んでいるし、目もともいつも以上にほっこりしている。


「……え? は、はい……ちょっと、楽しみなことがありまして……」

「テスト明けにアニメのイベントでも行くの?」

「いっ、いえ、別にそういうわけじゃ……」

「じゃあ、もしかして、彼氏とデート?」

「ひゃっ……い、いえ、そ、そういうことじゃ……」


 ……僕はスクロールさせていた指を止め、ゆっくりと顔を上げると、こわーい表情を固めた水上さんが僕のことをじっと見つめていた。

「あらあらー、照れちゃってー。井野さんったらほんと髪切ってから女の子らしい表情するようになったわよねえ、太地クン?」

「な、なんでそこで僕に話を振るんですか。あと、腕組まないでください」

「だって、太地クンプロデュースなんでしょ? あなたに感想を聞かずして誰に聞くというのよお」


 すると、バタンという鈍い音が突然響いた。どうやら、井野さんが持っていたスマホを落としたみたいだけど……。

「みや×たい……みや×たい……久し振りの公式からの供給きた……」

 ん? 待って? 今公式からの供給って言った? ねえ、どういうこと? 公式からってことは、非公式の供給もあるってことですか?


 またひとつ知りたくない事実を知ってしまった僕は、遠い目を浮かべながら、依然厳しい顔色のままの水上さんの様子を窺っていた。

 ……何か、嫌な予感がする。


 休憩に入る際には、売り場のパワーバランスも考えないといけない。先休ではメンバーが強いけど、後休では弱い、といったことが起きないように。この日はシール一枚のふたりと、三枚の僕が夜のシフトに入ったので、井野さんと水上さんを先休、僕を後休に設定した。これであとは宮内さんと中番の人で売り場を回してもらう。……仕事上の都合だから。


 休憩後の配置は井野さん補充の僕と水上さんのカウンターだ。何気に研修明け後、こうして一緒にカウンターに入るのは初めてかもしれない。

「……えらく井野さん上機嫌でしたね?」

「そ、そうだねー」


 このタイミングでは、雑誌の加工をしていた。よくある月刊誌や、旅行のガイドブック、全年齢向けの写真集や大判の攻略本などがこれにあてはまる。ちなみに週刊誌はうちは取り扱ってない。なんせ一週間で既刊になるから、在庫が腐りやすいんだ。


「……何かされたんですか? 八色さん」

「い、いや、その……勉強を教えて欲しいって言われて……それで、今度の木曜日に約束したんだよ……」

 今回は嘘も隠れもせず、正直に答える。すると、水上さんは少しだけ目の光を落とし、


「勉強って……保健体育の保健の実技、とか言いませんよね?」

「古典だよ古典。なんで思考回路が男子中学生になってるの?」

「……井野さんはむっつりさんですから」

 まあ、誘い受けだしねあの子。

「はぁ……今回は正直に言ってくれたのでいいですけど。……まだ井野さんに優しくされるんですね」

 ため息をつきながら、水上さんは淡々と雑誌に値札を貼りつけていく。


「……いい加減、私だけを見ていただいても、いいんですよ……?」

 すると、近くに誰もいないのをいいことに、水上さんは売り場だというのにすぐ側に近寄っては、上目遣いで僕の顔を見上げ、制服のポロシャツの襟元を緩める。

「ちょ、ちょっ、何してるの、ここ売り場だし勤務中だって、駄目だってそんなことしたらっ」


 当然だけど、そんなことをしたら彼女の胸が視界に入る。……一瞬だけ、ピンク色の下着と、隠れ切っていない谷間が見えてしまい、慌てて水上さんと距離を取る。

「……八色さん、少しですけど、動きました?」

「っ、う、動いてないから」

「……いいんですよ? 私は合法なんですから。……私でいけない気持ちになってもいいんですよ? 八色さん」

「だ、だからっ」

「あ、そうだ八色さん。その勉強会、私も参加していいですか?」


 いきなりの転回に頭が追いつかない。

「え、え?」

「……井野さんとふたりきりになんて、絶対にさせません。井野さんの家に行くのだって、本当は止めたかったんです。……でも、その日はシフトがあったので」

 彼女の強い意志がこもった言葉を聞いて、背筋が凍りつく。


「八色さんは……私を選んだんですよ? 私、嘘をつく人は嫌いなんです。……八色さんは、そんな人ではありませんよね?」

「……いや、えっと」

「そうですよね? ……まあ、嘘をついてまで井野さんに会う八色さんなんて、いらないんですけど」

「……は、はい」


 僕もしばしば嘘をつくのに、彼女の圧で頷かされてしまった。

「では、木曜日はよろしくお願いしますね? 八色さん」

 ニコリと笑みを浮かべ、小首を傾げる水上さんの表情は、目の色が死んでいた。


「あ、井野さん。木曜日の八色さんとの勉強会なんですが、私も参加することになったので、お願いします」

 閉店後、着替え終わってこれからお店を出るというタイミングのこと。水上さんは前を歩く井野さんにそう言いだす。


「……え? み、水上さんも……いらっしゃるんですか……?」

 井野さんは少しだけ残念そうに顔を萎ませて、弱々しい声でそっと何かを呟く。

「……せっかく、ふたりで会える機会だったのに……」


「井野さん? 何か言いました?」

「いっ、いえ、全然。わかりました。会場、どこにしましょうか? どこかファミレスとかにしますか?」

「ああ、それなんですけど、おふたりさえよろしければ──」

 水上さんはそこまで言うと、瞬きをするくらいの間、そっと顔を緩ませそして、


「──私の家で、やりませんか? そのほうが、お金もかかりませんし」

 僕を震え上がらせることを、提案したのだった。

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