第36話 おかげでドキドキしちゃったじゃないですか……

 そうこうしているうちに、パンケーキが部屋に届いた。焼きたての生地から漂う程よい甘い香りと、ホイップはイチゴといったそれぞれのトッピングの匂いが狭い空間のなかで奇跡のコラボレーションを果たす。……殺人的な空間だと思う、今。

「わあ……美味しそう……!」


 目の前に広がる甘い食べ物に、お腹が鳴りそうになるのを自覚する。……う、そういえば今日の朝、ゼリー飲料だけで済ませたからまともにご飯食べてないんだった……。

「い、いただきます……」

「いただきまーす」

 ふたり同時にケーキにナイフとフォークを向かわせて、熱々のそれを頬張る。


「ん……何これ、美味しい……」

 口のなかに放り込むと、しっとりかつふわふわな生地が甘くて口触りよく溶けていき、それをカバーするようにホイップは甘すぎずくどくない。……ずーっと食べていられそうだ。

「ううう……やっぱり東京来てよかったです……! 美味しい……!」

 水上さんに上京したことを後悔させないお味なようで、こっちはこっちでイチゴとかブドウとか乗っかっていてそれはそれで美味しそう。


「……八色さん、ひとくち貰ってもいいですか?」

 ひとまわり、ケーキとトッピングを一周した水上さんは、羨ましそうに僕が食べているパンケーキを見つめ始める。

「べ、別にいいけど……」

「わあ……! ありがとうございます!」


 すると彼女はケーキにホイップを乗せて、「はふはふ」とまだ温かさ残る生地を味わい始める。

「……口にホイップついているけど」

 どうやら、その拍子に水上さんの口端に白いものが残ってしまった。

「え? ほんとですか? どこですか?」

 彼女はティッシュでそれを拭おうとするけど、なかなか取ることができない。


「もうちょい右、あ、行き過ぎ行き過ぎ」

「まだ取れてないですか?」

「うん、まだ……」

 普段から基本的に落ち着いた言動が目立つ水上さんだから、口にホイップがついた今の状況はなかなかに面白いというか。


「あれ……どこだろ……」

 もう直接僕が取ったほうが早いのではと思い、テーブルに置かれた水上さんのポケットティッシュを一枚拝借して、彼女の口元をそっと拭った。

「へ……?」

「いや、もう僕が直接やったほうが早いかと思って……」


 水上さんは、僕のいきなりの行動に驚いたのか、口をポカンと開けてジーっと僕の右手のティッシュを眺めている。一拍遅れて白い肌が徐々に徐々に熱を帯び始め、

「やっ、八色さんが……デレた……?」

「誰がツンデレだ」

「だ、だって……ブラ見せつけても胸押しつけても、全然つれない反応しかしてくれなかった八色さんが……え……? で、でも……あれ……?」


 持っていたフォークをお皿に置き、両手を頬に押さえる水上さん。

 ……あれか? 水上さんの場合、責めるのは慣れているけど、責められるのは弱いってパターンか? こういうの、なんて言うんだっけ……?

「……み、水上さん? おーい、水上さーん」

 しばらく機能を停止したようにピクリともしなくなってしまったので、顔の前で手を振ったり、肩を揺すったりしてみる。


「あっ、あれ……? 私、一体何を……」

 頬につけていた両手をそっと下げて、彼女は自分の胸に手を当てる。

「……八色さん……ほっぺにクリームついてます」

「え? 僕も?」

 まじかい……人のこと言えないなと再びティッシュを取ろうとすると──


 バタン。


「……あの、水上さん……」

「わ、私が……取ってあげますね……?」

 床に押し倒されて、水上さんに覆いかぶされる僕。水上さんは細い指を唇の端にあてがって、確かについていたクリームをそっと掴み……そのまま自分の口に指を含んだ。


「ちょ、ちょ……何やってんの……?」

 そのままちょっと熱っぽい表情を浮かべたまま、彼女は仰向けに倒れる僕の体に自分の胸を押しつけた。

「……ドキドキしてるの……わかりますか……? 今、すっごく鼓動が速くなってるんです……」

「い、いや……えっと……」


 正直鼓動とかそれどころじゃありません。マシュマロみたいに柔らかいものが肌に感じられて僕の頭はオーバーヒートを起こしそうです。

「……八色さんがいけないんです。八色さんが、私のことを不意にキュンとさせるのが……。おかげで今の私、すっごくドキドキしているんですよ……?」

「そ、それは……なんか……ごめん」

「はぁ……はぁ……や、八色さん……」


 やばい、僕なんか水上さんのスイッチ押しちゃったかもしれない。息も荒くなり始めているし表情も蕩けている。ここカラオケだから、間違ってもカラオケだから。

 左手を懸命に伸ばして、僕はカラオケの曲を入れるタブレットを適当にタッチしていく。

 頼む……なんでもいい、何か曲よ入ってくれ……! このままだと……襲われる……。


 僕の願いが通じたのか、最近流行りのポップスのイントロが大音量で流れ始めた。それにハッとなった水上さんが体を起こしたことで、なんとか僕も解放される。

「ほ、ほら、ここカラオケだし、せっかくだし歌わないと損じゃん? ほ、ほら、水上さんから先どうぞ?」


 かごに入っていたマイクを差し出すと、少しだけ不満げな顔をした水上さんは渋々それを受け取っては、苦し紛れに転送した曲を歌い始める。

「~~♪」

 ……普通に上手い。見た目の印象通り、歌詞とメロディを嚙みしめて大切に歌うようなスタイルで、音程グラフもきっちり正確になぞっている。


 っていうか、即興で入れたのによく歌ってくれたな……カラオケに連れてきたってことは、水上さん自身カラオケが好きってことなのか……?

 間奏に入ると、少し頬に風船を作った水上さんが残っているパンケーキを口にしながら、


「もう、八色さんったら。せっかくいい雰囲気であと少しだったのに……」

 と不満を垂らす。……ごめん、何があと少しだったのか教えてもらってもいいかな。


 僕もそれを聞こえてないふりをしつつ、少し冷めてしまったケーキをもぐもぐと咀嚼する。……うん、やっぱり安心する美味しさだね。

 一曲が終わり、再び部屋のなかが静かになる。すると、

「八色さんも歌ってください。十曲くらい」


 怒ったままの様子の水上さんが僕にタブレットを突きつけてくる。

「え、え? 十曲も持ち歌ないよ僕」

「じゃあ作ってください、でないと割に合いませんっ。さあ、早く入れてくださいっ!」

「……ええ?」


 その後、喉が悲鳴をあげるまで水上さんは僕に歌わせ続けた。カラオケに行っても一曲二曲しか歌わない僕にとっては、それも一種の地獄絵図でもあった。

 ……部屋を出る頃には、当然だけど僕の声はガラガラに枯れてしまっていた。

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