第29話 塞ぐノイズ、あの感情の行き場はなくて
「ち、ちょっとお母さん、いきなり誘ったら八色さんに迷惑でしょ……?」
いきなりの展開に終始テンパり続けている……円さん。顔の前で左右乱雑に振っている手指の先まで赤くなっている。
「あら? 円あなた、お店では八色さんって名字で呼んでいるの? 家では──」
「わあああお母さんほんとにこれ以上は駄目ええっ」
そうして、娘が母の口を物理的に閉じるというなかなか見られない光景を見ることができた。何が悲しいって、こんなに大騒ぎしているのに、それを咎めるお客さんがいないってこと。
「なんか、ここまで元気な円ちゃんも新鮮っすね、太地先輩」
「……ああ、ああいう騒ぎかたは初めて見るかも……家ではああいう声も出すんだ……」
「──太地先輩って名前で呼んでいるのに、やっぱりあなたこういうところで奥手ねえ」
そして明らかになった衝撃の事実。
「ですって。た、い、ち、せ、ん、ぱ、い」
「浦佐に言われてもなんも新鮮味がないわ」
「ほんと……恋する乙女で眩しいっすね、円ちゃんは……自分には縁のない世界っす」
「……ノイズとやらに憧れでも抱いたか?」
僕は加工スペースで一緒に突っ立っている浦佐に、そう尋ねる。視線の先には買取カウンターで色々やっている井野母娘を捉えながら。
「いや……ノイズは所詮ノイズっすよ。自分はクリーニングして編集しちゃって動画化します。……それに、自分がそのノイズを聞きたいって思える人に、出会える気もしませんっす。じゃあ、そろそろ自分は戻るっす。この調子なら、太地先輩ひとりでもどうにかなりますよね?」
浦佐は少しだけ寂しそうな表情を作り、また持ち場へと戻っていった。僕は半ば苦笑いを作りながら、とりあえず漫画の山にラベルを貼る作業を継続させていると、
「ねえ八色さん。次のお休みっていつかしら?」
「ちょっと、お母さんやめてって、恥ずかしいからっ」
……抵抗する娘、それをかわす母。大抵こういうときに勝つのは母と相場が決まっていて、逆に父は娘に負ける。なんて世知辛いんだ。
「え、えっと……僕の次の休みは金曜日ですね」
あまりお客さんに自分のシフトをバラすのはよくないけど、まあ家族ならいいでしょうと、僕は頭のなかのカレンダーを引いて予定を確認した。
「あら、今日含めて四連勤なの? 働くんだねえ」
「ちょっと、学費稼がないといけないので」
「まあまあ、ほんとに真面目で優しい先輩なんだね、でも金曜日ならお父さんも家にいるから都合がいいわ。お父さんも八色さんに興味持っていてねー」
……え? お父さん……?
その単語を聞いた瞬間、サーっと僕の顔色が青くなった。いや、無理無理無理。僕なんて自己紹介すればいいの。バイトの先輩です? ただのバイトの先輩家に招待しないだろ普通。え、何? 何なの?
ちょっと待ってください恵さん。僕は一体何をしに井野家へお邪魔するんですか? 交際のお許しを得るためじゃないですよね? 僕、お宅の娘さんとは付き合ってませんよ? 告白未遂はされましたけど。強引に保留にした感じの。
「やっ、八色さん、お母さんの言うことは気にしなくていいんでっ。お母さん、もう仕事の邪魔だから帰ってよ、漫画も売り終わったんでしょ?」
「えー、私まだ円の優しい先輩とお話したいー」
「お母さんっ。ここはホストクラブじゃないんだからはやく帰ってっ」
……怒った井野さん……円さん初めて見た……。
「……ちぇっ。……深夜に『……たいちさん、……たいちさん』って湿っぽい声出してんの聞こえてるんだぞお? なんだったらベッドが軋む音も私たちの部屋まで少しは聞こえているからねえ?」
「っっっっ、帰ってっ!」
「はーい、お邪魔しましたー、また来ますねー」
ねえ、僕はどうすればいいんですか? 最近僕はバイト先の後輩の性事情を知り過ぎていると思うんですがどうでしょうか。……あと井野さん。親にまで声聞こえているのなら、少し絞ったほうがいいと思う。お父さんが泣くと思うから。
色々嵐を巻き起こしてくれた井野恵さんは、陽気に手を振りながらエスカレーターを降りて、お店から帰っていった。プシューと頭の頂点から湯気を出している井野さんは、今にもその場に座り込んでしまいそうだ。
「……なんか、色々凄いお母さんだったね」
「……すみません……私の母が……色々騒いで……」
「別に……呼びかたは井野さんの好きにしていいからね?」
「……ありがとうございます……八色さん」
あ、そこは変えないのね。まあそれならそれで水上方面に安心というか。
「……お母さんも、BL読むの?」
とりあえず話題をちょっとずつ逸らしていこう。これ以上触れてはいけない。井野さんが壊れてしまう。恥ずかしさで。
「……はい、母も腐女子なんです。……もう女子って年でもないんですけど」
あー、もうお母様に対するヘイトが溜まっているから言葉に棘があるよ。いいよ、それくらいは許そう? というか、外見は女子でも通じるよ? なんならテンションも若いし。
「へ、へー、そうなんだ……」
「きっ、金曜日の件は一旦忘れてくださいっ。私がちゃんとお母さんと話してくるので。いきなり家に来てって言っても、八色さんは迷惑でしょうから」
「あー、まあ……暇と言えば暇なんだけどねー、その日……」
大学も行かない曜日だから、完全フリーのお休みなんだよな……。
だから困っているんだけど。
「とりあえず、この話は保留で。保留でお願いしますっ。私にも心の準備が必要ですしっ……」
それに関してはワンチャンどころかツーチャン僕のほうが必要かと思うんですがいかがでしょうか。彼女でもない四つも年下の後輩女子の家へ行く男子大学生の心構えってなんですか? 百字以内で述べて欲しいです。
「お、オッケー……決まりそうになったら教えて……できればラインで」
直接話すと水上さんに知られてまた大変なことになりかねないから。……この間はブラジャー脱いだけど、今度は何しでかすかわかったもんじゃない。上の次は……下? 怖すぎて夜も眠れないよそうなったら。
「わかりました……そうします……」
恵さんが帰ってからのお店も至って平和だった。平和過ぎてあくびがでるくらいには。それから対応したお客さんの数、販売三名、買取一名。以上。……閑散期にしても、ちょっと少なすぎる客数だった。天気が悪いわけでもないのに。
「いやー、今日は楽しかったっすねー」
帰り道、お店から新宿駅に向かう途中。前を行く浦佐は面白そうにそう言う。
「円ちゃんがあんなに騒ぐの初めて見たっすよー」
「……も、もう忘れて……恥ずかしい……」
「いやあ、それはできない相談っすよー。レアリティで言えばSSRっすからね、排出率3%の」
……ここでも独特な例えのゲーム脳浦佐。さっき見せていた寂しげな表情は払拭されていて、いつもの何も考えていない適当な彼女に戻っている。
「そんじゃ、自分はこれで。お疲れ様っすー」
「うん、お疲れー浦佐」
そうしてまた、今日も一日の勤務が終わりを告げた。
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